「お邪魔します」
合い鍵を使い、扉を開けた。
扉を開けてまず、感じられるのは、ひなたさんのおうちの匂い。
「いらっしゃい、エミリーちゃん」
その言葉はどこからも聞こえなかった。
いつものように言葉を返してくれるひなたさんは、私の隣にも部屋の中にもいない。
――寒々とした空間。
そう思ってしまったことに、私は少しびっくりしてしまった。
この場所に来たときに、『寒々とした空間』なんて思ったことは、今までに一度もなかったから。
いつも、この場所は居心地のいい空間だった。
ひなたさんが楽しそうにしているときはもちろん、ひなたさんが落ち込んでいるときだって、この場所は、いつも私を温かく迎えてくれた。
ひなたさんより先に、この部屋に入ることも、ひなたさんがいないときにこの部屋に入ることも、よくあることなのに……。
だから……。こんな風に、私を拒絶するような空間になっているとは思わなくて。
私は玄関の前で、しばらくの間立ち尽くしていた。
1分には満たなかったと思う。私は小さくため息をついて、ひなたさんの部屋に侵入した。
侵入という言い方はもちろん不適切だ。
それでも、主人が当分帰ってこない、私を拒絶するような空間に対して、私は侵入という言葉以外が、浮かばなかった。
主人のいないこの部屋にやってきたのは、ひなたさんに頼まれた用事を行うためだ。
もともと高年齢層からは、支持があったひなたさんは子供番組の「飛呼飛呼惑星群」で未就学児から小学生とその親の支持を集め、「花天使」で20代〜30代の男性女性の支持を集めた。
ひなたさんはこつこつと仕事の幅を広げ、気がつくと満遍ない年齢層の支持を集めていた。
そして、あの、『果てしなく仁義ない戦い―魅梨音闘争篇』のひなた組長だ。
劇場内選考会では、演技を得意とするまつりさんと一騎打ちになり、見事に選出。
普段の優しい物腰からは、想像もつかないほどの知的捌玖参な演技は、界隈ではかなり話題になった。
演技力も認められ、現在のひなたさんは先輩たちや「苺爆発月」の皆さんにはかなわないまでも、劇場の大和撫子の中では、上から数えたほうが早いくらいの人気者になっていた。
そうなると、出張撮影で長期に家を空けることも多くなる。
ひなたさんの人気が出る前からこの家によくお邪魔し、家庭菜園のお世話をしていた私は、いつの頃からか合い鍵をもらい、ひなたさんのいないときには、ひなたさんの代わりに、家庭菜園やぬか床の世話をするようになっていた。
もちろんそれは、ひなたさんに頼まれて行っていると同時に、私が自分からやらせてほしいと、頼み込んだことでもあるのだけれども。
一昨日から、ひなたさんを含めた「花天使」の人たちは帛琉に出張撮影に行っている。
帛琉は海を表す青地に月を表す黄色い丸が配置されている国旗を持つ国だ。第一次大戦後に日本の委任統治領になった関係で、たいそうな親日な国で、公用語が日本語の州もあるのだとか。
星梨花さんの出発前の事前勉強を横で見ていたので、多少なりとも帛琉について勉強になった。今頃は青い海の元、水着になって写真撮影をしているのだろうか? 水着だと大きさ的に可憐さんの一人舞台の気がするのだけれども。
どんよりとした、日本の梅雨模様の空を見上げて、太陽が輝く青空の下、「花天使」の皆さんと撮影に励んでいるであろうひなたさんに思いを馳せた。
――私はずっとひなたさんをすごい人だと思っていた。
だって、ひなたさんは社長に見初められた人だから。
町のお祭りの時に、ひなたさんは社長に声をかけられ、その後仕掛け人さまと面接を行った。ひなたさんからはそう聞いている。
私が覚えている中で、劇場組の中で、社長から仕掛け人さまに紹介されているのは、事務員採用のはずだったのに大和撫子の面接になってしまった、このみさんを除けば、それ以前より子役をやっていた桃子さんしかいないはずだ。
直接社長に選ばれているということは、ひなたさんは、あの先輩組。そして、以前から子役の実績がある桃子さんと同等の実力があるということではないだろうか。
少なくても私はずっとそう思っていたし、今でもそう思っている。
大和撫子初登壇以降かなり長い間、ひなたさんの自信のなさが、その実力を霧の中に隠し、私にとっては不満で、ひなたさんにとっては不遇な時間を過ごしてきた。
しかし、いろいろなお仕事を経て、ひなたさんは自信をつけ、本来の実力を発揮できるようになった。
だから、今の状況は私にとっては必然で、喜ばしいことではあるのだけれども……。
私は小さくため息をついた。
大和撫子としての人気が出るまでは、いつも二人でいた。
嫌なことがあったときは、二人で慰め合い、良いことがあったときは二人で喜びあった。
ひなたさんは、まつりさん、紬さん、朋花さんや他の劇場の人たちも違う。
ひなたさんの隣は、ひなたさんの名前を表すように、陽だまりの中にいるように温かく、心が和らぐ。
気がつくと、私はひなたさんに対してそんな風に思うようになっていた。
そしていつしか、私たちの関係性が変わった。
私もひなたさんも、たくさん悩んで、自分の気持ちを殺し、相手の気持ちを傷つけた。
それから、二人でいっぱい、いろいろなことを話して、また、関係性が変わった。
私とひなたさんは、いろいろなことを本当にいろいろ話し合った上で、そういう関係性になったのだ。
だからこそ、一緒に長い時間を過ごしたいのだけれども……。
ひなたさんとは、もう一ヶ月近く顔を合わせていない。
電子伝言機能ではやり取りしているが、音声通話はしていない。
ひなたさんとは、仕事や学校の予定を共有しているのだけれども、最近のひなたさんの予定は、本当に過密で。
朝から昼間の時間は電画放送や、音声放送の出演。夜の時間帯は、公演の楽曲の練習などに当てられていたし、練習が終わってからは、学校や家事などの時間になっている。
なので、時間を拘束してしまう音声通話は自重していた。
ため息がこぼれる。……淋しい。……逢いたい。……声が聴きたい。
伏し目がちになると、ふと、寝台が目に入った。
淋しさから、はしたないと思いつつも、ひなたさんの残り香を探して寝台に潜りこむ。
――布団と枕から、強く感じるひなたさんの残り香。
淋しさを埋めるためにここに潜り込んだのに、ひなたさんを感じて、より、淋しさが強くなった。
私はぽつりと呟いた。
「ひなたさん。逢いたいです……」
気がつくと、私はひなたさんの残り香に包まれながら、自分のことを慰めていた。
「ぃく……」
それがやってきたのは、それから十数分後のことだった。
果てた衝撃で、身体が弓なりになる。
すぐにその衝撃は収まり、ぽすんと、背中を布団に落下させた。
一息ついて、体液でべとべとになった右手を寝台近くに置いてあるちり紙で拭う。
気持ちはよかった……。身体は一瞬満たされた。でも、それだけ。心はずっと寒々としたままだ。
「ひなたさん……。……声が、聴きたいです……」
その言葉に反応したかのように、突然、携帯電話が私を呼んだ。
あわてて寝台から飛び出て携帯をとると、画面には『ひなたさん』の文字が写っていた。
すぐに、画面に指を滑らして、電話に出る。
電画電話機能で連絡を取ってきたのか、画面に青い空の下にいる水着姿のひなたさんが映し出された。
「もしもし、エミリーちゃん……。今、大丈夫かい?」
「はい。大丈夫です」
「今、休憩で少し時間が取れたから、かけてみたんだけど、なんか、エミリーちゃんの声を聴くの久しぶりな気がするよぉ」
「久しぶりですよ、『声で会話』をしたのは1ヶ月ぶりくらいですから」
「そんなに経つかい。今まで本当に忙しかったからなぁ。本当は、あたしももっとお話したかったのだけど、いろいろ重なっちゃって、いつも時間遅くなっちゃて……」
「私も、ずっとひなたさんとお話したいと思っていました」
ひなたさんも、私と同じ思いを抱えてくれていたということに、寒々としていた心が、おひさまの光の中に置かれた氷のように、溶けてほどけていく。
そのほどけた心が、無意識に言葉になって口から飛び出していた。
「ひなたさん……。……逢いたいです」
「うん! あたしもエミリーちゃんに逢いたいよぉ。このロケが終わったら、少し長いお休みくれるって、プロデューサーが言ってたから。ね!」
「はい!」
そう言って、お互いに微笑みあう。
「……ところで、エミリーちゃん?」
ひなたさんにしては、珍しく意地悪そうな微笑みを浮かべる。
「そこ、あたしの部屋だよね? ……あたしの部屋で、そんな格好で、何をしていたのかな?」
「……え?」
私はその言葉に、慌てて自分の格好を顧みる。
女性向け襯衣の釦は全て外され、乳押さえは下にずらされている。
女性用下履きは、下履きとしての役目を果たしておらず、左足首に丸まって絡まっている。
ひなたさんからの着信が嬉しくて、とにもかくにも慌てて出たのだけれど、その結果として、私は、何していたかと問われれば、ナニをしていたとしか答えられない状態で、会話をしていたのだった。
「み、見ないでください!」
私は思わず携帯電話を寝台の上に放り投げ、あわてて身なりを整える。
「帰ったら、何をしていたのか、しっかり教えてもらうからね。楽しみにしているね。したっけ、呼ばれちゃったから、電話切るね。また電話するよぉ!」
「え、あ、ま、待ってください!」
身なりを整のえた私は、すぐに携帯を拾い上げたのだが、その時にはすでに、ひなたさんからの通話は切れていた。
「ひなたさんの、ばかーーー!!」
電話が切れてしまっている悔しさと、あまりにもはしたないところを見られてしまった恥ずかしさのあまり、私は海の向こうのひなたさんに向かって、八つ当たりしたのだった。
FIN
エミリー語解説
飛呼飛呼惑星群―ピコピコプラネッツ
花天使―Fleuranges(ふるらんじゅ)
知的捌玖参―インテリヤクザ
苺爆発月―ストロベリーポップムーン
帛琉―パラオ
大和撫子初登壇―アイドルデビュー
電子伝言機能―メッセージアプリ
電画放送―テレビ放送
音声放送―ラジオ放送
電画電話―テレビ電話
女性向け襯衣―ブラウス
釦―ボタン
乳押さえ―ブラジャー
女性用下履き―パンティ
あとがき
エミリー語について
自分の中のエミリー語の概念として、基本は英語で考えて、エミリー語で出力するというのが基本になっています。
その設定で、「黒猫柄砂糖天麩羅状布付き護謨」は書かれています。
今回のエミリーに関しては、アイドルになってから、それなりに月日が経っている想定なので、何度も使っている言葉は当然定着する。という設定になっています。
特にユニット名は脳内で英語→エミリー語の変換は起こらないくらい日常的に使うだろうなとのことから、ユニット名は全部エミリー語表記としました。
また、自分が日常的に身につける物も、もうエミリー語で定着しているという設定です。
なので結果として、カタカナ語のほとんどが、エミリー語で出力されています。
上記設定で、エミリーの中ではエミリー語が定着している上にモノローグがほとんどなので解説する人がいないのはいかがなものかとは思ったのですが、まあ今回は設定上しかたなしと、そのまま突き進みました。
何にも説明ないのは不親切だと思ったので、最後にエミリ語解説を追加しました。
知的捌玖参、読めました?