あたしは関係者席から、ステージを見ていた。
未来さん・静香さん・翼さんの楽曲。
杏奈ちゃん・可奈ちゃん・志保ちゃんの楽曲を。
劇場の2周年記念ライブ後の、39公演。
そのメンバーにあたしは選ばれなかった。
39公演は、2周年記念ライブが大盛況で終了したお礼として、企画された公演で、765オールスターズを除いたミリオンスターズ全員で、オーディションを行い、オーディションの内容と、いろいろな都合を合わせた結果で選抜されたメンバーが出演した。
選ばれた人たちはどの人たちも歌やダンスがうまかったり、見せ方が上手だったり。
37人もアイドルがいる中から、選ばれるのは難しい。あたしも努力はしているけれど、他の人たちも努力をしていないわけではない。特に、あたしなんか、ただ歌が好きなだけな女の子だ。
未来さんや可奈ちゃんみたいに華があるわけではない。静香さんや杏奈ちゃんみたいに歌が特にうまいわけではない。
翼さんや志保ちゃんみたいに見せ方がうまいわけではない。そう考えて、一つため息がこぼれる。あたしは本当にみそっかすなんだなと。
選ばれないのは、ある意味当然かもしれない。
「みんな、本当にすごいねぇ……」
口からは感嘆の言葉しか出なかった。
もっと、もっーと頑張らねば。39公演を関係者席からみて、心からそう思った。
39公演から数日後、来週のスケジュールを劇場に確認しにきたあたしは、プロデューサに声をかけられた。
「ひなた。ちょっといいかい? 10分程度ミーティングしたいのだけど、時間大丈夫かな?」
「大丈夫だよ。プロデューサー」
「じゃあ、そこの椅子に座ってちょっと待っててくれ。今、資料印刷するから」
それからしばらくして、A4のプリント用紙に印刷された、オーディションの募集要項が渡された。
プロデューサーがあたしに持ってきてくれたのは、北の大地テレビのオーディション。
毎週日曜日の朝7時から放映される『アイドル組曲』という番組だった。
北海道ローカルの番組で、アイドルを紹介する番組だ。
オーディションを通過したアイドル1名を、CMを除いた25分間の番組内でじっくり紹介する。
番組内ではオーディションの時の様子が紹介され、インタビュー有り、曲紹介有りの盛りだくさんの内容になっている。
あたしがアイドルに憧れたのも、この番組がきっかけだった。
「あたしが小さいときからやってる番組だねえ。この番組は好きで、よく見てたよぉ。でも、あたしなんかが受けて大丈夫だろうか?」
よく見ていた番組。だからこそ、あたしなんかが受けて良いのだろうかと心配になる。
「北海道では結構知名度のある番組だよ。ひなたも知ってるだろ?」
「そうなんだね。あたしの故郷でも人気の番組で見ていない子供は殆どいなかったよ」
「だからこそ、ひなたにオーディションを受けて欲しいなと思ってさ。ひなたは北海道出身だろう? だからもっともっと、北海道の人に知ってもらえたら、ファンも増えるんじゃないかと思うし、ひなたのご家族にも、普段あまり見せられない、ひなたの活躍を見せることが出来るだろうと思ってね」
「そうだねえ……。ううん。あたし、頑張るよぉ」
あたしなんかがあのテレビのオーディションなんて、という気持ちはあるけれど、アイドルのきっかけになった番組に出ることができるかもしれない。
何より、じいちゃんやばあちゃんたちにアイドルの晴れ姿を見てもらえるかもしれない。だから、あたしはそう答えた。
「じゃあ、オーディションは申し込んでおくよ。オーディションは二週間後。時間の都合上、北海道に前入りになるから、前日も開けておいてくれ。あと、オーディションで何を歌うかだな。ソロ曲の『あのね、聞いて欲しいことがあるんだ』ユニット曲の『ドリームトラベラー』全体曲の『Thank You!』どれでも良い。ひなたがオーディションで歌いたい曲を選らんで欲しい。
「わかったよ、プロデューサー。よろしくたのんます」
「あとな、このあいだのCD結構売り上げ良くて、再販が早くも決定したぞ」
「こないだのって、LTD05かい。ありゃ。それはすごいねぇ。沢山の人に聞いてもらえて良かったよぉ」
先日出したCDは、 LIVE THE@TER DUO SERIESと銘打って、765プロミリオンオールスターズの50人を25組のペアにして、毎月4組4曲ずつ発表しているCDだ。今回は第05弾。あたしは亜美シショーとペアになって、『"Your" HOME TOWN』を歌っている。このCDには他に、貴音お嬢さんと風花さん、茜さんとロコちゃん、亜利沙さんと奈緒さんが歌っている。
「あたしが歌った歌も気に入ってもらえるといいんだけどねぇ」
「ひなたと亜美が歌ってる歌も、結構評判良いぞ。田舎がある学生さんとか、OLさんとかが刺さるって感想をくれているぞ。検閲にもう少し時間が掛かるから、再来週くらいにはファンレター、渡せるんじゃないかな? 楽しみにしていてくれな」
「うん、楽しみにしてるよぉ」
そうして、あたしとプロデューサーのミーティングは終わった。
プロデューサーからオーディションの話をもらったあと、あたしは着替えてレッスン室に来ていた。
オーディションを受けるからには受かりたい。それには練習を、と思ったからだ。
オーディションで歌う曲。あたしは悩んだ結果『Thank You!』を歌おうと思っていた。
自分の曲よりもたくさん歌い、たくさん踊った曲。
オーディションを受けるなら、慣れている曲のほうがいいだろう。そう考えた結果だった。
携帯電話にスピーカーを繋ぎ、練習音源を流す。
歌いなれた曲。踊りなれた曲。もちろん歌詞も間違えることはなかったし、踊りも完璧に振りが入っている。
最後の音が鳴り終わるのを聞いて、あたしは上げていた手をおろした。
あたしとしては、完璧に歌えたと思う。完璧に踊れたと思う。
でも、これでオーディションに合格できるだろうか?
多分、ダメなんじゃないかと思う。
頑張ろうと思っていた気持ちが、下を向く。
だって、あたしは39公演に参加することはできなかったから。
39公演のオーディションも、『Thank You!』だった。
あのときも、あたしは完璧に歌えたと思う。完璧に踊れたと思う。でも、あたしはあの公演に参加することはできなかった。
オーディション結果発表後の14歳組のグループラインを、あたしはただじっと、眺めることしかできなかった。
先輩のやよいさんを除けば14歳組であのライブに参加できないのはあたしだけだったから。
みそっかすのあたしが、オーディションに合格できるのだろうか。
受けるのはあの『アイドル組曲』だ。
あたしは力なくその場に座り込んだ。
「今日はやっぱり練習、やめるべさ。こんな気持ちでやったら怪我しちゃうだろうし」
あたしは着替える気も起きず、のそのそと立ち上がり、控え室へと向かった。
たまたま誰もいない劇場の控え室で、あたしはお茶を飲みながら、ぼんやりと考えていた。
39公演に出られなかった今のあたしの完璧では、アイドル組曲のオーディション合格に届かない。そんな気がする。
……じゃあ、どうすればいいのだろうか?
あたしは首を傾げる。誰かに相談すればいいのだろうけど、誰に相談したらいいのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたら、控え室の扉が開いた。
「ひなたちゃん。グリュースゴッド♪ 久しぶりに遊びに来ちゃいました!」
ドアを開けて控え室の中に入ってきたのは、劇場のアイドルではなく961プロの詩花さんだった。
詩花さんは以前。アイドルサマーフェスティバルで競演したことがきっかけで仲良くなり、タイミングが合うと劇場に遊びに来てくれたり、公演に特別ゲストとして参加してくれたりしている。
「詩花さん! お久しぶりだべさ。今日はどうしたんだい?」
以前に顔を見せてから、2ヶ月くらい経っているだろうか。久しぶりの客人に、あたしは立ち上がり、詩花さんを迎え入れる。
「今日はお仕事が早めに終わって、明日はオフで予定がないので、誰かご飯でもご一緒できないかなっと思って」
「そうなのかい? あたしで良ければ、ご一緒させて欲しいべさ」
「はい。是非是非! ところで、ひなたちゃんの今日の予定は、これからレッスンですか?」
詩花さんのその言葉に、なんて言おうか悩んで俯く。
「自主レッスンしていたんだけど、どうやってレッスンすればいいかわからなくなっちゃってね。誰に相談しようか考えていたところだったんよ」
「そうなんですね」
詩花さんはほんの少し考える素振りをしたあと、あたしに言った。
「私で良ければ、相談、乗りましょうか?」
「え? でも、いいんかい?」
「もちろん、ひなたちゃんが良ければですけど」
「そうだねえ……」
どうしようか。最初は劇場の誰かに相談しようとした。
でも、なんとなくはあまり劇場のみんなには相談したくないなとも思っていた。それが何でかは分からなかったけれど。
今までのアイドルの経験から、一人だけで頑張っていいてもうまくいかないことはわかっていた。
だからこそ、あたしは誰かに相談しようと考え込んでいたのだから。
詩花さんは言い方が悪いかもしれないけれど、外部の人だ。今のあたしの気持ち的にはもってこいの人だった。
「相談に乗ってくれるのは、ありがたいんだけれども、黒井社長に怒られないかい?」
問題があるとすれば、黒井社長の存在だろう。あたしの練習を見てもらって、詩花さんが怒られたのでは申し訳ない。
「バレなければ大丈夫です。バレても私がなんとかしますから」
「本当に本当にいいのかい?」
「はい! ホントのホントに大丈夫です」
「詩花さんがそこまで言ってくれるならお願いしようかね。詩花さん。よろしくお願いします」
「はい! あたしにどこまでお手伝いできるかわかりませんが、頑張りますね」
詩花さんは小さくガッツポーズして、微笑んだ。
レッスン室に向かいながら、あたしが今日感じたことを話す。
「今度、北海道のアイドル番組のオーディション、受けるんだわ。『Thank You!』を歌おうと思っているのだけど、今のままじゃ合格できないような気がして……」
「そうなんですね。歌っているところを見せてもらえば、なんかアドバイスできるかもしれません」
そうこう話しているうちに、 レッスン室に到着した。
先ほどと同じように、携帯電話にスピーカーを繋ぐ。
「じゃあ、合図したら、曲をかけてもらえるかい?」
「はい。わかりました。あと、ひなたさんが歌っているところ、動画に撮りますね。何かアドバイスがあるなら、それを見ながらの方が説明しやすいと思うので」
そう言いながら、詩花さんは携帯をあたしに向かって構えた。
最後の音が鳴り終わるのを聞いて、あたしは上げていた手をおろした。
歌いなれた曲。踊りなれた曲。もちろん歌詞も間違えることはなかったし、踊りも完璧に振りが入っている。
「どうだったかなあ? あたしの中ではうまくできたと思っているのだけど、詩花さんから見たらどうだい?」
「そうですね。ここをこうしたらいいんじゃないかなと思う点はいくつかありますけど、パフォーマンス自体は、ひなたちゃんらしい温かく優しい雰囲気で私は好きです」
「そうかい! ありがとうね。じゃあ、直したほうがいい点を教えてもらえるかい?」
「えっと、動画を見ながら説明しますね。あと、メモの用意をしたほうがいいかもしれません」
「じゃあ、ちょっと書くもの用意するから、ちょっこし待っててね」
それから、詩花さんは撮ってくれた動画を見ながら、あたしの歌とダンスにダメ出しをしていく。5分程度の間に指摘された数、39個。単純計算で、1分間に8個はダメなところがある計算だ。
「やっぱり、詩花さんはすごいんだねぇ」
称賛の声が口から溢れる。
あたしから見た完璧は、詩花さんから見たら穴だらけで。
それを考えたら、あたしがあのライブに出られなかった理由がわかった。
あたしは、あたしが思っているより、もっともっとみそっかすなのかもしれない。
アイドルのことで、劇場のみんなとかけっこをやったら、あたしがみんなに勝てるわけがない。
あたしは本当に、ただ歌が好きなだけの女の子だから。
勝てないのはわかっている。でも、アイドルというお仕事は登山のようなものだ。
たとえみんなが足早に山頂に向かって、置いて行かれたとしても、一歩一歩歩いていけばいい。
トロくさくても前に進み続けることができれば、遅くても山頂で追いつける。
今は確かに置いていかれているけれど、それ以上離されないように頑張っている。
あたしがみんなに負けていないと、胸を張って言えることといえば、一歩一歩前に進み続けていることぐらいだ。
先に行く仲間を羨んでも、置いていかれている自分を蔑んでも、前には進まない。
詩花さんに見てもらって、自分では全くわからなかった改善点が出てきた。それを改善できれば、少なくとも今いる位置よりかは間違いなく山頂に近づくだろうし、みんなにも近づけるだろう。
「詩花さん教えてくれてありがとうね。あたし、頑張るよ」
あたしは詩花さんにお礼を言いながら、ぎゅっと右手を握った。
翌日、あたしは961プロに来ていた。
昨日の晩。詩花さんとご飯を食べながらおしゃべりをしていたら、詩花さんが一緒に練習をしないかと誘ってくれたのだ。詩花さんの指摘事項をどうやって解決しようか悩んでいたあたしは、その申し出をありがたく受けたのだが……。
「961プロってすごいんだねぇ」
あたしは、入り口の前で高く黒いビルを仰ぎ見ながら、そう独り呟く。
961プロのビルはとっても大きく、豪華で、765プロの事務所のちんまりとした佇まいとは比べ物にならなかった。
「あたしなんかが、入って大丈夫だろうか?」
そう言いながら、あたしは小さくため息をつく。
かといって、ここでボーと突っ立っているわけにもいかない。
あたしは小さく拳を握ると、961プロへと突撃した。
大きなガラス扉をくぐり、受付の綺麗なお姉さんに、詩花さんに会いに来たことを告げる。
「少々お待ちください」
受付のお姉さんはそう言って、どこかに電話をかけた。
あたしは手持ち無沙汰になって、ぼんやりとロビーを眺める。
一番に目に入るは、世界のアイドルと評判の、玲音さんのアクセルレーションのポスター。
発売からずいぶん立つのに、最近また売り上げが増えているとか。
その次に目立つのは『たのしいくらしっく』のポスターだ。
そのポスターには詩花さんと20代の背の高い男の人が映っている。――隣の男の人は315プロの伊集院北斗さんだ。
『たのしいくらしっく』は詩花さんが、レギュラーで出演している番組だ。毎週日曜日の朝7時〜7時30分。公共教育テレビで放映されている。
詩花さんが出ているからと、一度は見てみたけれど、クラシックはあまり興味が持てなくて、それ以来見ていない。
「あたしもいつか、どこかでレギュラーで出してもらえる日が来るのかなぁ」
北海道のローカルテレビのオーディションも受かるかどうか分からないあたしには、まだまだ遠い未来な気がした。
そんなことを思っていると、入り口のガラス扉が開いた。
それに反応して、受付のお姉さんがおかえりなさいませ!と声をかける。
961プロに帰ってきた人物は、黒井社長だった。
「おはようございます。黒井社長」
あまり会いたくない人だったけれども、出会ってしまった以上、挨拶をしないわけにはいかない。
だから、受付のお姉さんに続き、あたしも黒井社長に挨拶をする。
あたしの声を聞いて、黒井社長がギロリとあたしのことを睨んだ。
その鋭い眼光と、怒鳴られるのを覚悟して、あたしは身をすくませる。
「お前は高木のところの5流アイドルではないか。なぜこんなところにいる?」
怒鳴られるを覚悟していたが、黒井社長から飛んできたのは、普通の人が聞いたらかなりの嫌みな言葉だった。
もっとも、その言葉はあたしが想像していた言葉に比べれば、よっぽど優しかったのだけれども。
あたしのなかの黒井社長の評価は、頭の片隅にも残っていないか、7流アイドルくらい言われるものだと思っていた。
だから。あたしは黒井社長のそんな言葉を聞いて、おもわず顔がほころんだ。
「ほう。こういうふうに言って、そのような反応をされたのは初めてだ。なぜ、5流アイドルと言われてほっとしている。確か……、……木下ひなただったな」
あたしはその言葉で笑みを浮かべた。その言葉はあたしにとって、本当に嬉しい言葉だったから。
「あのね、昨日、詩花さんからいろいろ黒井社長のこと聞いたんだよ。詩花さん。黒井社長のことすごい褒めていたべさ。『765プロがからまなければ仕事は優秀。人を見る目は超一流だって』って」
「ほう。詩花がそんなことを……」
黒井社長は、満更でもなさそうな顔でそう呟いた。
「『人を見る目は超一流』の黒井社長があたしのことをアイドルとして認めてくれていて、名前まで覚えていてくれているんだもの。とっても嬉しいべさ。黒井社長。ありがとうね」
「ふん。5流アイドルと言った相手に、お礼を言われるとはな」
「あたしからしてみたら、あたしを5流でも、アイドルとして評価してもらえてるんだからありがたいよぉ」
あたしはそう言ってにっこりと笑った。
まさか嫌みを言った相手からまっすぐなお礼を言われるとはさすがの黒井社長も想定していなかったのか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべていた。
その後、咳払いをして気を取り直し、言葉を続けた。
「で、その765プロの5流アイドルがこんなところで何をしているんだ?」
「詩花さんを呼んでもらってるんだべさ。詩花さんは本当にすごいねえ。あたしが良くできたなって思っていたダンスに、何十箇所も悪いところ教えてくれたんだよぉ。詩花さんは歌もうまいし、ダンスも上手だし、憧れちゃうべさ」
「当然だ。詩花は超一流になるアイドルだ。貴様なんぞ、足元にも及ぶまい」
「そうだねぇ。今のあたしと詩花さんなら、比べものにならないくらい実力に差があると思うよ。そんな詩花さんにいろいろ教えてもらえるなんて、ほんと、ありがたいとおもってるよぉ。今日はいろいろ勉強させてもらうつもりだべさ」
そんな話をしていると、エレベーターのドアが開き、詩花さんがやってきた。
「ひなたちゃん! お待たせ……って、社長!」
「詩花か。今日は、木下ひなたに、詩花の持っている技術を教えてやれ。教えることで、自分の技術を再確認できるからな」
「社長! 良いんですか?」
黒井社長の言葉に詩花さんは目を丸くする。
「良いも、悪いも私が良いと言っている、木下ひなたは、詩花の技術アップの踏み台になってもらうんだからな、何も問題はない。さて、長話をしてしまった。私はここで失礼されてもらうよ。アデュー」
そう言って、黒井社長はエレベータの奥に消えた。
「ひなたちゃん。社長と何話したんですか?」
「あたしは、黒井社長と世間話していただけだけどねえ……」
「本当ですか?」
詩花さんは不思議そうな顔をして、黒井社長の乗ったエレベータをしばらくの間見つめていた。
「こわい。詩花さんのレッスン、本当にこわいわぁ」
黒井社長と会ってから数時間後、あたしはレッスンルームの床で大の字になりながらそう呟いた。
「あたしのレッスン、怖いですか?」
「律子さんのレッスンと同じくらいこわいわぁ。あたし体力は自信ある方なのに、こんなだもの。でも、詩花さんが優しくいろいろ教えてれたからだいぶ改善できたよぉ。ありがとねぇ」
「え? あたしのレッスン、怖かったんですよね? でも優しい?」
詩花さんが首を傾げているのを見て、あたしと詩花さんの会話がすれ違っていたことに気がついた。息を整えながらゆっくりと起き上がり、詩花さんの方を向く。
「ああ、こわいが方言だったの忘れてたよ。こわいって北海道の方ではしんどいっとか辛いっていう意味があるんさ。だから、さっきのはあたしは体力が結構ある方なのに詩花さんのレッスン、きつくてへばっちゃってるという意味なんで、恐ろしいとか、怖いの意味はないんだよぉ」
「あ、なるほど。そういうことだったんですね」
その言葉に詩花さんはホッとした表情を浮かべた。
「ところでオーディションはいつなんですか?」
「ちょうど2週間後だよ。合格できるかはわからんけども、頑張るよ」
「2週間ですか。その期間だとこの日とこの日は、時間、取れますね」
「詩花さん、そんなにあたしのレッスンに付き合ってもらってもいいのかい?」
「はい。ぜひ協力させてください! それに今回は社長のお墨付きをもらってますしね」
詩花さんはそう言いながら、ニッコリと笑った。
その後、詩花さんはちらりと時計を見ると残念そうに言った。
「でも、今日はここまでですね。私、これから社長と打ち合わせがあるんです」
「今日は、どうもありがとうございました」
あたしは立ち上がり、詩花さんに深々とお辞儀をした。
「こわい。詩花さんのレッスン本当にこわいわぁ」
詩花さんと練習をしてから、さらに1週間後。あたしは再びレッスンルームの床で大の字になりながらそう呟いた。
「以前に比べて、だいぶよくなってきたんじゃないですか?」
「そうかい? それだといいんだけれども」
あたしはゆっくりと起き上がった。
「最後に踊ったやつの映像、見てみますか?」
そう言いながら、詩花さんはレッスンルームに備えつけられた、ビデオカメラを操作し、同様に備え付けられた、モニターに画像が映し出された。
その画像を見ながら、詩花さんはあたしにダメ出しをしていく。
前回の練習から1週間が経ち、前回指摘された部分は、あたし的には全部修正できた。
まだまだ仕事の少ないあたしは、この1週間、睡眠と学校以外のほとんどの時間を練習に当てていた。
だから、指摘される数はずいぶん減ると思っていたのだけれども、実際はその数はあまり減らなかった。
その数は25個。先週とは違う別の箇所の指摘だった。
数的には先週よりはまだまし。というレベルのものだ。
「詩花さん。指摘の数があまり変わっていないんだけど、あたし、本当にうまくできているのかい?」
あたしは悔しくて、こっそりと右手を握りしめた。
「もちろんうまくできてますよ、ひなたちゃん。先週の指摘事項、全部きれいに直してきたからびっくりしちゃいました。できて半分くらいかなと考えていたので。さすがは765さんのところのアイドルですね。基礎力が高いです」
そう言って、あたしに向かってにっこりと微笑む。すぐに視線は画面に戻り、そのまま言葉が紡がれる。
「前回の指摘は、ダンスの指摘がほとんどでした。今回の指摘のほとんどが魅せ方の指摘です。指摘の数が減っていないとひなたちゃんは思ったのでしょうけど、前回とは違う、次の段階の指摘が出来てるんです。だからすごく成長していると思いますよ」
詩花さんのその言葉に少し安心して、その後に続く言葉に耳を傾ける。
「765さんのアイドルはどのアイドルも基本はよく出来てるんです。トレーナーさんの資質のせいなのかもしれませんが、基本のその次のステップの入るのが遅い気がします。
基本が9割できているのに、ライブを見ていてその先の指導まだしていないんだ、と感じることは多々ありますね。765のトレーナーさんは、基本が10割できないと次のステップに進まない基準なんでしょうね。それがいいか悪いかはわかりませんが、個人的にはもったいないと感じちゃいます。この子のパフォーマンスはこんなものじゃないはずなのにって。思っちゃうことが多いですから」
それを聞いて、あたしはすでに先を走っている同年代のアイドルたちのことを思い浮かべる。
今でもあたしからしてみたら、みんな良いパフォーマンスしていると感じているのに、更にパフォーマンスが良くなっていくと詩花さんは言っているのだ。みそっかすのあたしはみんなに追いつくことが出来るのだろうか? 気持ちが暗くなりそうなところをぎゅっと拳を握って、自分を奮い立たせる。あたしに出来るのは歩き続けることだけだから。
「……ひなたちゃん。他人事で聞いてるみたいですけど、私が今言ってるのって、ひなたちゃんのことですよ」
画面を見ていた詩花さんの目は、いつの間にかあたしを見つめていた。
「え?」
「ひなたちゃんは基礎はちゃんとできています。けれど、それを応用する力がないように感じます。だから、パフォーマンスの応用力を身につけたら、……そうですね。765プロのアイドルで言ったら、春香ちゃんにも負けないくらいのアイドルになれると思いますよ」
「……あたしが春香さんみたいに?」
「ええ」
あたしが尊敬するアイドルは沢山いる。貴音お嬢さん、伊織お嬢さん、千鶴お嬢さん、まつり姫さん。もちろん春香さんもその1人だ。
ダンスなら真さん、演技力なら美希さん、歌唱力なら千早さん。春香さんは個々の能力では、秀でているとは言えない。
あたしから見て、春香さんが一番秀でているところは周りを笑顔にする能力だと思う。だからこそ、765プロのアイドルの中心は春香さんになっているのだと思う。
以前、春香さんが練習に参加したとき、春風に包まれているような、そんな優しい雰囲気で練習をすることが出来た。
そんな風にあたしもなることが出来るのだろうか?
でも、そうなりたいと思った。別にアイドルたちの中心になりたい訳ではなく、あたしがいることによって、ひだまりの中にいる。みんながそう感じられるようなそんなアイドルに。それでみんなが笑顔になれるようなアイドルに。
「詩花さんがそう言ってくれるなら、あたし、春香さんに負けないようなアイドルになれるよう頑張ってみるべさ」
詩花さんが。あたしのことをそこまで買ってくるのが嬉しくて。あたしは微笑みながら詩花さんにそう言った。
それからのあたしは、オーディションに向けて詩花さんに指摘された魅せ方の修正を重ねた。
ダンスに比べて、魅せ方を修正するというのは、あたしにとっては少し難しく、アイドルのことをもの凄く研究している亜利沙さんに協力してもらった。亜利沙さんは詩花さんの言葉を、こうすると客席からはこういう風に見えるという感じで、的確に置き換えてくれた。
そうやって頑張った結果、何とかオーディションの前々日までに、詩花さんの指摘を全部直す事が出来たのだった。
そして、オーディション当日。
あたしとプロデューサーは、オーディションが開催される15分前に札幌のテレビ局に到着していた。
受付をすませ、会議室でオーディションの開催を待つ。
会議室にはすでに8人程度の人が集まっていた。
台本を読んでいる人、携帯をいじっている人、何かを書いている人。誰も喋る人はおらず、空気は凄く張りつめていた。
プロデューサーに聞いたところによると、今日、オーディションを受ける人は20名。その内合格者は1名だそうだ。
競争倍率は20倍。合格できるかは分からないけれど、今日のために、詩花さんや亜利沙さんの力を借りて頑張ってきた。
絶対合格したい。そう思っている。けれども、ここにいる誰もがそう思っているだろう。
あたしはノートを取り出し、ここ2週間、詩花さんに教えてもらったことのおさらいをする。
特に魅せ方の練習は大変だった。一応全部できるようになったとはいえ、改めて確認しておきたい。
最初のあの部分はこうして、何度も練習したあの部分は、ああして……。
ノートの先頭から、一つ一つ詩花さんからもらったダメだしの部分を確認し、どうしたかを思い出していく。
頭の中で、そのように踊れている自分をイメージする。
あたしがノートを一通り読み終わり、頭の中のあたしが一通り踊り終わるとと携帯がブルルと震えた。
エミリーちゃんから『御武運を』のメッセージ。
あたしはガッツポーズのスタンプだけを返し、携帯にイヤフォンを差し込む。
周りの音も聞こえるように右側だけ耳に付け、『Thank you!』を流し目をつむる。
今度は流れてくる曲に逢わせて、詩花さんに教えてもらったことを一つ一つ思い出しながら自分が踊っているイメージを脳裏に浮かべる。
脳裏に浮かぶ自分は、しっかりとダンスを踊れていた。
1曲が終わり、もう一度流そうか悩んでいると、番組のアシスタントさんと思われる人が入ってきて、プリントと番号カードを配り始めた。
お偉いさんに挨拶をして来ると言って、会議室から出て行ったプロデューサーも、いつも間にかあたしの隣に座っていた。
そして、オーディションの説明が始まった。番組のアシスタントさんの説明によると、配られた番号札の数字順に3〜5分以内の曲を1曲披露する。
それを番組のお偉いさんたちが見て、審査を行う。
その結果、番組にふさわしいと思われる1ユニットのみが合格するとのことだった。
それは事前にプロデューサーに聞いていたとおりのことだった。
あとは、10分後からオーディションを開始すること。ウォーミングアップが必要な人は、3番スタジオを利用すること。オーディションは1番スタジオを使用すると指示が出された。
「それじゃ、一度解散します」
その言葉で、みんなが一斉に準備を始める。
あたしもウォーミングアップをするために、ノートとかを鞄の中にしまい、鞄を持って立ち上がる。
「ひなた。順番、何番?」
あたしに配られたのは17番の番号札。比較的後ろの方の番号だった。
「17番だよ。後ろの方だから、ちょっこし緊張しちゃうねぇ」
そう言って、プロデューサーの方を見て微笑むも、プロデューサーの表情は硬かった。
「プロデューサー。どうかしたのかい?」
あたしがプロデューサーの顔をのぞき込もうとした次の瞬間、聞き覚えのある声の挨拶が後ろから飛んできた。
「グリュースゴッド。ひなたちゃん」
「え? えぇ! 詩花さん。こんなところで。詩花さんに会うなんて思っても見なかったよ。今日はどうしたんだい?」
あたしのその言葉を聞いて詩花さんは目を伏せながら言った。
「オーディションを受けに来たんです。アイドル組曲の」
「え? えぇ! 詩花さん。アイドル組曲のオーディション、受けるのかい?」
あたしのオウム返しの言葉に詩花さんは申し訳なさそうにこくりと頷く。
「もしかして、このオーディション受けることに気を病んでいるかい?」
「だって、ひなたちゃん、このオーディションに受けるために特訓してたんですよね? ……なのに」
――なのに、私が勝ってしまったら……。ひなたちゃんに申し訳ない。――
詩花さんが続けなかった言葉を、察することが出来た。
あたしはその言葉を聞いて小さく拳を握った。
詩花さんは、オーディションであたしに負けるわけがないと思っているのがわかったから。
あれだけ練習して、あれだけ欠点を直しても、詩花さんの視点では、あたしは足元にも及んでいないというのがわかったから。
そして、プロデューサーの硬い表情の理由も。
プロデューサーはきっとお偉いさん方に挨拶に行ったときに、詩花さんに会ったのだろう。だから……。
あたしは悔しい気持ちを隠しながら詩花さんに声をかけた。
「詩花さん。劇場内でもオーディションで仲のいい人と1席を競い合うのは良くあることだから。気にしなくても大丈夫だよぉ。あたしがオーディション合格しなかったとしても、詩花さんのことを嫌いになったりしないから。だから手を抜かずにオーディション受けて欲しいべさ」
あたしは詩花さんに前を向いてもらうために、ほんの少し、詩花さんを挑発する。
「それに……、詩花さんが合格すると、決まったわけじゃないしょや?」
言外に、詩花さんに挑戦状をたたきつける。
その言葉にはっとして、顔を上げる詩花さん。
「確かにそうですね。少し油断していたかもしれません。オーディション全力で取りに行きますから。覚悟してくださいね、ひなたちゃん」
そう言って詩花さんはあたしに握手を求めてきた。
あたしはその手をしっかりと握り返したのだった。
「ありがとうございました」
そう言って、審査員に一礼し、スタジオを出た。
すぐにプロデューサーが追いかけてきて、あたしに話しかける。
「お疲れさま。ひなた。以前と見違えるくらい上手くなっていたよ。詩花との特訓の成果、バッチリ出ていたな」
あたしの出番は終わった。歌詞は頭の中に入っていた。ダンスは身体が覚えていた。詩花さんに教えてもらったことは間違いなく全部できていた。
自分では、100点の出来だった。でも、自分の評価と他人の評価は違う。そのことは身に染みてわかっている。
だから、他人の評価。特にプロデューサーから言われるのはとても嬉しかった。あたしの頑張りは無駄になっていないというのが、実感できるから。
「プロデューサーからそう言われると、やっぱり嬉しいねえ。頑張った甲斐があったべさ。後は合格できると良いんだけどねぇ」
「そうだな。合格できると良いな」
「プロデューサーから見て、あたしは合格できそうかい?」
プロデューサーは少し考えてから言った。
「今回のひなたの出来なら、上位3名の中には入ってるんじゃないかな? 俺は審査員じゃないから、合格できるかどうかは、わからないけど」
今回のオーディションの合格者は1名だ。上位3名の中に入っていても、1番じゃない限り合格は出来ない。あたしはプロデューサーの態度から、今のあたしの完璧では、詩花さんには及ばなかったことを理解した。
「……そうかい。上位3名かい。合格できると良いねえ」
「……そうだな。とりあえず、結果発表まで、これでも飲んで休憩してくれ」
プロデューサーはそう言って、ペットボトルのスポーツドリンクをあたしにくれた。
そして、結果発表。
「合格は4番です。4番さんは、この後打ち合わせに。他の方は順次お引き取りください」
あたしの番号は呼ばれなかった。合格は詩花さんだった。やっぱり詩花さんには敵わなかった。
あたしは、ぎゅっと右手を握りしめた。小さくため息をついた後、あたしは、詩花さんに駆け寄った。
「詩花さん。オーディション合格、おめでとう!」
「あ、ありがとうございます。ひなたさん」
私に話しかけられた詩花さんは、かなり気まずそうで、あたしとどういう風に話そうか迷っているみたいだった。
詩花さんにしてみれば、あたしをこの番組のオーディションに合格させるために特訓したのに、自分がその合格を阻んだのだ。
確かに気まずいに違いない。だから……。
「あたしも頑張ったけど、ダメだったよ。よかったら、また特訓につきあってもらえるかい?」
あたしはたとえこの結果でも、詩花さんに敵意を持っていないことを伝える。
「もちろんです。社長からお墨付き、もらってますからね。また気軽に連絡ください」
あたしの言葉をきいて、詩花さんはほっとしたような顔をしてそう言った。
「じゃあ、詩花さん。撮影頑張ってね」
「はい。ありがとうございます! 頑張ります!」
そう言って、詩花さんは別室に消えていった。
「ひなた。とりあえず、ホテルに戻ろうか」
プロデューサーの声に、あたしはこくりと頷いた。
ホテルに向かうタクシーの車内で、プロデューサーが今後の予定について説明してくれた。
「今日はこれからホテルに行って、荷物を置いたらフリーだ。出かけるときは、俺に声をかけてから出かけてくれ。明日はチェックアウトしたら、すぐに新千歳空港に向かう。チェックアウトの時間は6時。7時30分発の羽田空港行きに乗るから。羽田空港に到着したら、解散な。その日と、翌日はオフ。最近、頑張っていたみたいだから、少しのんびりしてな。晩ご飯は一緒に食べよう。食べたいものがあるなら、教えて欲しい。お店、探しておくから。何か食べたいものはあるかい?」
「うーん、今は思いつかないべさ。考えておくよぉ」
そんなやり取りをしたあとホテルに戻ってきた。
持っていた鞄を机の上に起き、靴と靴下を脱ぎ、ベッドの上に寝転がる。
うつ伏せになって、枕に顔を埋める。
今日のオーディション、あたしの中では完璧だった。プロデューサーも褒めてくれるくらいの出来だった。……だけど詩花さんには敵わなかった。
両手の拳をぐっと握る。
あたしは合格できなかった。悔しい。ばあちゃんに、家族に、友人に、あたしがしっかりアイドルをしているというところを見せたかった。
その悔しさをベッドにぶつける。2回。3回、4回とベッドを叩く。
「う、……ううぅ」
あたしは堪えられなかった。
しばらくの間、あたしは感情の赴くまま、泣き声と涙を枕に吸い込ませた。
Trrrrr、Trrrrr、Trrrrr
近くで、電話が鳴っている……。
電話? あたしは、はっとして、鳴っている電話の受話器に手を伸ばす。
「もしもし」
「ひなた。そろそろ晩御飯にしようと思うんだけど、ロビーに出てこられるかい?」
電話の相手はプロデューサーだった。
「えっと、 10分待ってもらえるかい?」
ぼんやりとした頭で、とりあえず返事をする。
お昼ごろホテルに戻ってきたはずなのに、部屋の中は真っ暗になっていた。
……寝てしまったようだ。少し寝ても、気分は全く晴れなかった。
のそのそと立ち上がり電気をつけた後、鞄から残っていたスポーツドリンクを取り出し、飲み干した。
空になったペットボトルをゴミ箱に入れ、洗面台に向かう。
落ち込んだ表情。泣きはらした目。鏡に映ったあたしは、ひどい表情をしていた。
ぱしゃぱしゃと顔を洗い水を拭う。
鏡の中のあたしは、先ほどとほとんどかわらないひどい表情をしていた。
プロデューサーに心配かけちゃうなと思いつつ、対処する方法が何も思いつかなくて。
あたしは大きくため息ついて、外に出る準備を始めた。
食事をしてホテルに戻ってきた。
部屋の電気をつけ、持っていたかばんを机の上に起き靴と靴下を脱ぎ、ベッドの上に寝転がる。
うつ伏せになって、枕に顔を埋める。
プロデューサーはあたしの顔を見て、随分と気を使ってくれた。
気分転換になるように色々話しかけてくれたし、今回は残念だったなと頭も撫でてくれた。美味しいものも食べさせてくれたと思う。
いつもは、あたしの不安や悲しい気持ちを魔法のようにすくい取ってくれるのだけれど、今日はその魔法は不発だったらしい。
せっかくの生寿司も美味しいとは感じなかった。
ため息をつきながら、あたしはまた、今日のオーディションのことを思い返す。
何度考えても、今日のオーディションはあたしの中では完璧だった。プロデューサーも褒めてくれるくらいの出来だった。
……だけど詩花さんには敵わなかった。
あたしは合格できなかった。
ばあちゃんに、家族に、友人に、あたしがしっかりアイドルをしているというところを見せたかった。
悲しい。
オーディションに落ちるなんてことは良くあることだ。
アイドルを始めたときなんかは16回連続でオーディションに合格できなかった。
最近は合格できる機会も増えてきたとはいえ、あたしにとって、オーディションに落ちることは日常だ。
だから、これくらいはいつものこと。いつものように、右手に悔しさを握りこもうとした。
だけど、今日は拳を握れなかった。いつもはこんな時、拳を握って心を奮い立たせてきた。
でも、今日は力が入らなかった。嬉しいことも悲しいことも全部、右手に握りこんできた。
それが、今日は出来なくて。
あたしの頑張った全てが、指の間からこぼれ落ちていくような気がした。
「あたしはみそっかすだから……」
だから、もっと頑張らなきゃと、いつもは心を奮い立たせるために言う言葉が、しょげている気持ちに突き刺さる。
さっき泣いたからか、泣くことも出来なかった。
あたしは息苦しさを感じて、仰向きになった。
部屋の照明を、眩しいと感じて目を閉じた。
もっと頑張らないといけないのに。
立派なアイドルになったと、ばあちゃんたちに見せたいのに。
39公演の時だって、今回だって、あたしの中の完璧まで仕上げて、オーディションに望んだ。それでも、あたしは選ばれなかった。
あたしの中の完璧では、他の人に届かない。
あたしは本当にみそっかすで、のびしろなんか全然無いのかもしれない。
自分から間引くことも考えんといけんかなぁ。とぼんやりと思う。
765プロは50人ものアイドルを抱えている。
プロデューサーに聞いたところ、今のところ問題なく経営できているそうだ。
だけど、いつまでもそうとは限らないし、50人もいたら人気の大小もかなりある。
育ちの悪いところを間引いて、育ちの良いところに、より栄養を与えるのは作物を育てる上では当たり前のことだ。
アイドルになってから2年が経った。
2年間で誰も間引かれなかったということは、そろそろ間引きが始まるかもかもしれない。
そして、あたしは間引かれる側の人間だとも思っていた。その間引く決断を、あたし自身がするべきなのではないかと。
そんなことをぼんやりと考えていると、携帯が鳴いた。
テトテテトテテトテテトテトーン♪ テトテテトテテトテテトテトーン♪
軽快な呼び出し音が、耳障りに聞こえる。
あたしはのろのろと身体を起こし、携帯を手に取った。
発信者はエミリーちゃんだった。
あたしは出ようかどうか少し迷って、通話ボタンをタップした。
「もしもし」
「もしもし、こんばんはひなたさん。今大丈夫ですか?」
「えっと……。大丈夫」
「えっと、ひなたさん。もしかして寝てました?」
「ううん。寝てないよ」
「そうですか……」
そこから、しばらく2人の間に沈黙が訪れる。
もちろん、原因はあたしだ。
今日のあたしは、いつもエミリーちゃんと話しているときみたいに、言葉が紡げなくて。
「もしかして、選考会は……」
「うん、ダメだったんだ。あたしとしては完璧に出来たんだけどねぇ。あたしの完璧は、他の人から見たら、全然完璧じゃないべさ」
「……ひなたさん。元気、出してくださいね」
エミリーちゃんは優しいから、凄く気を遣ってくれているのが分かる。あたしが落ち込んでいるのを見かけると、エミリーちゃんはいつも励ましてくれる。
いつもなら、その優しさが落ち込んでいる心に吸い込まれるのに、今日はエミリーちゃんの優しさが、一つも心に入っていかなかった。あたしの心を上滑りしていった。
そのことが、あたしを更に落ち込ませる。
あたしは、エミリーちゃんの優しい言葉すらも受け取れない。薄情な人間なのだと。
「エミリーちゃん。……あたしダメかもしれんわぁ」
素直な気持ちが口からこぼれる。
「え? 大丈夫ですか? ひなたさん!」
「……ごめんね、エミリーちゃん。こわいから切るね」
「え? ひなたさん!」
あたしはエミリーちゃんの声を断ち切るように、切断ボタンをタップした。
テトテテトテテトテテトテトーン♪
すぐに鳴き出す携帯。画面に映るエミリーちゃんの文字。
あたしは、その呼び出しに応えることなく、携帯の電源をオフにした。
携帯を枕元に置き、再びベッドの上に寝転がる。
そして見るとはなしに、天井を見つめた。
ぼんやりと明日以降のことを考える。
明日と明後日は一日オフ、明明後日は、18時からボーカルレッスン。その次は何だっけなあと思い返す。
そんなことをぼんやりと考えていると、コンコンと扉が叩かれた。
びっくりして慌てて身体を起こし、はーいとドア向こうの人に声をかける。
「ひなた。ちょっといいかな?」
ドア向こうの人はプロデュサーだった。
ドアを開けて、プロデューサーを招き入れる。
「プロデューサー? どうかしたのかい?」
プロデューサーはあたしの顔を見て、少し困ったような顔をすると言った。
「ひなた。ちょっとつきあって欲しいんだけど良いかな?」
本当は部屋に閉じこもっていたい気分だった。でもプロデューサーがわざわざ誘ってくれたからという理由で、あたしは渋々頷いた。
「外に出るけど、すぐ出られるかい?」
「大丈夫だよぉ。だけど、どこに行くんだい?」
「それは、着いてからのお楽しみって事で」
ホテルから5分くらい歩いてたどり着いたのは、警察官のネズミがマスコットのゲームセンターだった。
ゲームセンターに入ると、最初はクレーンゲームがお出迎えしてくれた。
プロデューサーと一緒にクレーンゲームの森を抜け、階段を上った。
2階はビデオゲームのコーナーのようだった。プロデューサーはしばらくその場でフロアを見渡すと、目当てのモノを見つけたのか、歩き出した。
プロデューサーが立ち止まったのは、拳銃を画面に向かって撃つタイプのゲームだった。
両替してくるからちょっと待ってて。と、いい残し、プロデューサーは両替機の方へと歩いていった。
手持ちぶさたになり、ゲーム台を眺める。拳銃は二丁付いていて、2人まで遊べるタイプのようだ。
足下には銀色のペダルが付いている。
ゲームの画面をみると、町中で銃撃戦が始まっていた。
何とはなしにその銃撃戦を眺めていると、プロデューサーが帰ってきた。
「このゲームを遊びたいからさ、ちょっとつきあってよ」
あたしはその言葉に小さく頷いた。
「まずはゲームの遊び方を……。ちょうど、説明の画面になったから、ちょっと説明を見てくれるかな?」
拳銃で敵を撃って進んでいく。拳銃に弾が無くなったらペダルを踏むと補充できる。撃たれそうになるときは、敵側に赤い輪っかが出て来て、一定の時間が経つと撃たれてしまう。 ペダルを踏むことで隠れることができ、敵の銃弾を避けることが出来る。
「うん、わかったよ」
プロデューサーはこくりと頷くと、ゲーム機にコインを1枚入れ、あたしに拳銃を渡した。
「画面に銃口を向けて引き金を引くと参加できるから」
その言葉で、あたしは引き金を引く。
バキューン!と銃音が響き渡った。
ゲームが始まった。
ゲームが始まり、40分くらい経っただろうか。画面にはスタッフロールが流れていた。
「やった! やったよぉ、プロデューサー!」
結局プロデューサーはゲームに参加せず、あたしが遊んでいる横からアドバイスを飛ばしたり、ゲームオーバーになったら、すかさずお金をゲーム機に入れたりしていた。
なので、2人でクリアしたというよりは、あたしがこのゲームをクリアしたといってもいいだろう。
「やったな、ひなた。おめでとう! で、クリアした感想はどう?」
「こったらゲーム、あまりやったことなかったけど、全部クリアできたのは嬉しいねえ。でも、ずいぶんプロデューサーにお金、使わせちゃったんじゃないかい?」
「お金は大したことないよ。大人組と行く飲み代のほうがよっぽど高いから。さて、いい時間だし、そろそろ戻ろうか?」
あたしはその言葉にこくりと頷いた。
「プロデューサー。なして、あのゲーム、あたしにさせたんだい?」
ホテルへ帰る道すがら、あたしは何でプロデューサーがあのゲームをあたしに遊ばせたのかを聞いた。わざわざ部屋から引っ張り出して遊ばせたのは何か理由があるのかと思って。
「理由はいくつかあるんだけど、一番は気分転換だよ。ひなたがあれだけ頑張って準備して臨んだオーディションだったから、落ち込むのもわかる。そのままにしちゃうと明日以降に引きずっちゃいそうだったからっていうのが一番かな。大人だったら、やけ酒とかできるんだけど、さすがに未成年にやけ酒させるわけにいかないしなぁ」
「お酒、そんなに美味しいのかねえ」
いつも楽しそうにお酒を飲みに行っている大人組を思い浮かべながら、なんとはなしに呟く。
「やけ酒の酒は美味しくないぞ」
プロデューサーは遠い目をして言った。
「じゃあ、なして、やけ酒なんてするんだい?」
「大人になるとな、なかなか弱音が吐けないんだよ。だから、お酒の力を借りて、酔っぱらってるっていうのを言い訳にして弱音を吐くのさ」
「大人になるのも大変だねえ」
「子供のほうが大変だよ。大人はやけ酒って手段があるからいいけど、子供はそういうわけにいかない。うちのアイドルたちは、ひなたを含めて我慢強い子が多いだろ? 我慢強いのはいいことだけど、ため込みすぎると爆発しちゃうからな。プロデューサーとしては、爆発して傷つく前に、ガスは抜いてあげないと」
今日は本当にダメらしい。いつもなら気にならないはずの言葉に心がささくれ立つ。
「そうだよね。プロデューサーにとっては、お仕事だものね」
あたしのとげのついた言葉をプロデューサーは軽く受け止める。
「2割くらいな」
「2割?」
「アイドルのみんなが、劇場のみんなが俺のことをどう思っているかはわからないけれど、俺はただの仕事仲間とは考えていないよ。年の差はあれど、仲の良い友人みたいには思ってる。仲の良い友人が、しんどそうだったら、力を貸してあげたいだろ?」
「うん。そうだねぇ」
いつも助ってもらってるエミリーちゃんに何かあったら、あたしにできる限りのことをしてあげたい。エミリーちゃんに限らず、劇場のアイドルに問題があったとしたら誰でも、あたしは手を貸してあげたいそう思うだろう。
「友人として何かしてあげたいと思って、何かをその人のためにやっても、最初のつながりが仕事仲間である以上、どうしても仕事になっちゃう部分はあるってこと。例えば、ひなたがエミリーとユニットを組んでたとして、エミリーが何かしらの問題を抱えているとしたら、手を貸すだろう?」
「なにかしら、してあげたいと思う。かなぁ」
「ひなたがエミリーを助けて、ユニットが上手く回る。そして、舞台が成功する。でも、ひなたは仕事のためにエミリーを助ける訳じゃないだろう?」
あたしは首を縦に振った。
「でも、エミリーを助けたから、仕事はうまくいったわけだ。エミリーを助ける上では、エミリーと一緒の舞台に立ちたいとか、考えるだろ? でも、それって仕事のことになるだろう?」
「確かにねぇ」
「それと同じってこと。最初のつながりが仕事仲間である以上、どうしても仕事になっちゃう部分はある。でも、仕事だからその人を助けたいと思っているわけじゃないっていうのはわかってもらえた?」
「うん」
「後、ひなたにあのゲームをやらせた理由だけどな。ひなたに2つ、知って欲しいことがあったんだ」
あたしは何も言わず耳を傾ける。
「ひなたは最後に自分を褒めてあげたのは、いつだい?」
「自分を褒めてあげたこと?」
「ひなたは、自分なんてまだまだと思っているよね」
「それは、うん。だって……」
「うん。ごめん。最後まで言わせてくれるかな。確かにな、ひなたは他の人に比べれば、まだまだな部分はいっぱいあると思うよ。でも、2週間前のひなたと、今回のオーディションのために頑張った今のひなたはちがうだろ? だから、頑張った自分は褒めてあげても良いんじゃないか? 向上心が強いのは良いけど、頑張った自分は褒めてあげないと、そのうち何も頑張れなくなっちゃうから」
「……うん、がんばってみるよ」
そう言われても、自分で自分を褒めるというのは難しい。なりたい自分はいつももっとずっと先にある。仲間たちは、自分よりずっと先に進んでいる。自分と比べても、仲間と比べても、あたしはあたしのいたい位置――褒めてあげられる位置にいないのだから。
「基準を作ってあげるのは良いかもな。オーディションに合格したら褒めてあげる。ステージでアンコールが起こったら褒めてあげる。練習靴がダメになったら褒めてあげるとかな」
「うん」
「それか、誰かに褒めてって言ってみるのも良いかもな。亜利沙に言ったら、いっぱい褒めてもらえると思うぞ。あとは、仲の良いアイドルに言ってみるのがいいかもな。もしアイドルに聞けなかったら、俺に聴きにきな。いくらでも褒めてあげるから」
「うん。……じゃあ、プロデューサー、あたしのこと褒めてくれるかい?」
「改めて言うよ。ひなた。今日は、残念だったけど、よく頑張ったな。以前と比べて動きが全然違ったよ」
そう言いながら、プロデューサーはあたしの頭を撫でてくれた。
いつもなら、すごく嬉しくて、胸の奥がほんの少し暖かくなる。そんな気持ちも湧くのに。
プロデューサーの言葉すら、今のあたしは素直に受け取れなくて。だからあたしは、何も言わずに俯くことしかできなかった。
だって、それだけ頑張っても詩花さんには敵わなかったから。
「なあ、ひなた」
プロデューサーはあたしの頭をなでるのをやめ、しゃがみ込んであたしと目を合わせる。
「あのな、もうひとつひなたに言いたいことがあるんだ。アイドル組曲のオーディション。さっきのゲームみたいにコンテニューするつもりはあるかい?」
「こんてにゅー?」
言っている意味がわからず、首を傾げる。
「ひなたが受けたアイドル組曲。昔からやってる番組だろう?」
「うん」
「やっぱり人気がある番組らしくって、打ち切りになるって噂、聞かないんだよ」
「うん?」
「つまりな。オーディションは定期的に募集している。来月にもまたオーディションが開かれる。俺としては、さっきの遊んだゲームみたいに、ゲーム機にコインを入れる用意はあるって感じかな? ひなたは、どうしたい?」
「……プロデューサー、次、受けたとして、あたしは合格できるかな?」
「今のひなたの実力だったら、詩花のようなよっぽど飛び抜けているアイドルがいなかったら、合格できる番組だと思ってる。だから、今回このオーディションを受けてもらいたいと思ったし、だからこういう提案をしている。どうだ?」
「……プロデューサーがそう言ってくれるなら、そうなんだろうけど……すこし考えさせてもらってもいいかい?」
「……そうか。わかった。来月のオーディションの申し込みにはまだ時間がある。その時までに教えてくれればいいよ」
あたしはこくりと頷いた。
「お疲れさまです」
翌日のお昼頃、あたしたちは劇場に戻ってきた。
朝はあたしもプロデューサーも寝坊して、危うく飛行機に乗り遅れそうだった。
だけれども、何とかぎりぎりで飛行機に乗ることが出来た。
空港で解散して、家に帰っても良いことになっていたけれど、あたしはプロデューサーと一緒に劇場に戻った。
プロデューサーはそのまま事務室に、あたしは控え室へと向かった。
今日はなるべく1人でいない方が良いなと、自分でもわかっていたから。
1人でいると、きっとあたしは立ち止まってしまう。
もしそこで、座り込んでしまったら、今のあたしはもう立ち上がれない。そんな気がしていた。
だから、あたしは劇場に行ったのだ。控え室に誰かいれば、おしゃべりも出来るだろうし、誰もいなければ、劇場内外の植物の世話をしよう。そう思って。
控え室にはエミリーちゃんと、詩花さんがいた。
「ひなたさん!」
エミリーちゃんは、そう言って慌てて立ち上がると、こちらに駆け寄ってきて。あたしの手を握った。
「ひなたさん。大和撫子、辞めないですよね? 辞めちゃ嫌です!」
「えっと、急にどうしたんだい。エミリーちゃん」
「どうしたって、昨日、もうダメかもしれない。怖いから切るねって。その後ずっと、ずっと繋がらなくて。携帯電話の伝言機能もまったく既読がつかず……。仕掛け人様は心配しなくていいっておっしゃっていたのですが、私もう、心配で、心配で……。大和撫子を続けていくのが怖くなったのですか?」
「こわい? ……もしかして、ひなたさん?」
あたしはエミリーちゃんにそう言われて、初めて、昨日のあのとき以来、携帯に触っていないのに気が付いた。
昨日の夜は携帯に触る気になれなかったし、今朝は寝坊して飛行機に乗り遅れそうだったから、携帯どころではなかった。飛行機の中では、携帯電話の電源は落とさないといけなかったから、カバンにしまいっぱなしだったし、こちらについてからも、ぼんやりとしていたから、携帯を触ろうという気持ちが全く浮かばなかったのだ。
エミリーちゃんは、今にも泣きそうな顔であたしのことを見つめて、あたしの言葉を待っていた。
あたしは、詩花さんに目配せすると、エミリーちゃんの顔を覗き込んだ。
「エミリーちゃん。心配させちゃってごめんね。あのね。あたし、エミリーちゃんにこわいから切るねって言ったっしょや? 北海道の方言で、こわいって、しんどいとか、疲れたっていう意味があるんだわ。だから、あたしは、エミリーちゃんにもうダメなくらいしんどいから今日は電話切るねくらいのつもりだったんだわ」
あたしはそういいながら、エミリーちゃんの手に自分の手を重ねる。
実際には、エミリーちゃんが心配している通りなのだけれど、あの時、詩花さんに気にしないでといった手前、そのことを素直に告白するわけにはいかなかった。
「だから、ね?」
「ひなたさん……。本当に大丈夫なんですね?」
あたしはそのエミリーちゃんの問いかけに、あいまい笑みを浮かべると、詩花さんに水を向ける。
「詩花さんは今日はどうしたんだい?」
「次の練習の日程を決めたいなとお邪魔したんです。あと、私も今日朝から連絡を入れてたんですけど、返信がなかったので、ちょっと心配になって……」
「そうなんだ。エミリーちゃんも詩花さんも心配かけちゃってごめんねぇ。寝るときに携帯の充電忘れちゃって、携帯、使えなかったんだわ」
「詩花さん、せっかくだから次の練習、日程、決めちゃおうか。いつなら詩花さんは空いているのかな?」
「あの、私も一緒に練習してもいいでしょうか?」
「あたしは大丈夫だけど、詩花さんのほうは大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫ですよ。じゃあ、3人が空いている日にしましょうか?」
練習は、3人のお仕事が入っていない来週の水曜日に決まった。
詩花さんは3人での合同練習が決まったら、次のレッスンの時間が迫っているそうで、すぐに帰ってしまった。
あたしはそれを見送り、小さくため息をついた。正直今の精神状態で、一番会いたくない人だったから。
「ひなたさん。今日は、何か用事があるんですか?」
一緒に詩花さんを見送ったエミリーちゃんが、そんな風に聞いてきた。
「今日かい? 特に用事はないから、緑の手入れでもしようかと思って」
「じゃあ、時間ありますよね? 私につきあってもらっても、いいでしょうか?」
「いいよぉ。どこに行くんだい?」
「こっちです」
そう言ってエミリーちゃんが、向かった先は屋上で、いつもあたしが陣取っている場所だった。
「こんなところで、どうするんだい?」
エミリーちゃんはかなり長い間、俯いていた。
あたしは、エミリーちゃんの言葉が降ってくるのを待ち構えていた。
それからもう少し、長い時間が経った後、エミリーちゃんが何かを決心したような目で、あたしを見つめた。
「ひなたさん。ひなたさんが、どう思っているのかわかりませんが、私はひなたさんのことを、大切な、本当に大切な友人だと思っています」
エミリーちゃんのあまりに硬い言葉の出だしにあたしは内心身構える。エミリーちゃんが何を言うのか想像が付かなくて。
「この2年間、他の劇場の皆さんと比べて、ひなたさんとは、より多くの時間を過ごしてきたと思っています。だから、何となくわかったのです。控え室の時の言葉、アレって嘘ですよね?」
「控え室の言葉って?」
「『もうダメなくらい、しんどいから電話を切るね』ってやつです。言葉だけなら、確かに、ひなたさんの言ったとおりの解釈も出来ると思います。だからこそ、詩花さんはひなたさんの言葉を信じたんでしょう。でも、私はそのときの言葉を直接聞いています。アレは絶対そんな意味で言っていない。私の知っているひなたさんがそう言うんです。違いますか? ひなたさん」
ここまであたしの心情を汲み取ってもらっている以上隠すのは無駄だし、エミリーちゃんのあたしの信頼を壊すことになる。
あたしは小さくため息をついた。
「……エミリーちゃん。よくわかったね」
「ひなたさん、選考会で一体何があったんですか?」
「詩花さんから何か聞いていないかい?」
「いえ。詩花さんからは昨日から連絡が取れなくなったから、心配で来てみたとしか」
「……そうかい」
あたしは、なんて言おうかしばらく迷って言葉を紡いだ。
「別に、特別なことは何もないべさ。一生懸命練習して、一生懸命準備したオーディションに合格できなかった。ただそれだけ」
「でも、それだけじゃなかったんですよね?」
あたしはその言葉になんて返そうかしばらく迷って、言った。
「本当に普通のオーディションだったんよ。エミリーちゃんにも言ったから覚えていると思うけど、オーディションに合格できれば、じいちゃんやばあちゃんにあたしがアイドル頑張っているところを見せられるなあって。詩花さんに頼んで、レッスン見てもらって、あたしとしては、完璧にできたんだけどねえ……」
そう言いながら、遠い空を見つめる。
いつもなら、あたしはここで拳を握って自分を奮い立たせて来た。
だけどこのとき、あたしの指はピクリとも動かなかった。
それを知ってか知らずか、エミリーちゃんは拳を握れないあたしの右手にそっと自分の手を包み込むように添えて、エミリーちゃんの手を握らせた。
あたしの何も握れなかった手はエミリーちゃんの手を握りしめた。そこにエミリーちゃんの手があったから。
あたしはぎゅっとエミリーちゃんの手を握りしめながら、言った。
「本当に普通のオーディションだったんよ。一生懸命準備してオーディションに合格できなかった。あたしとしては完璧にできたんだけど、あたしの完璧では詩花さんに届かなかった。ただそれだけのことなんだべさ」
「……詩花さん? え? 詩花さんもひなたさんの受けた選考会に参加されたんですか?」
あたしは何も言わずにこくりと頷いた。
「……そう、なんですね」
突然出てきた詩花さんに、エミリーちゃんもなんて言おうか迷っているようで、左上の虚空に視線が飛ぶ。
「小さな仕事はこつこつ出来ているけど、北海道のテレビで流れるようなお仕事はまだ出来ていないし、1stの満員御礼公演の時も、2ndの39公演の時もあたしは出ることが出来なかった。今回のオーディションこそはって、思っていたんだけどね。じいちゃんやばあちゃんにあたしがアイドル頑張っているところを見せたかった。……あたしとしては、今回のオーディションは完璧にできた。でも、あたしの完璧では詩花さんに届かなかった。あたしがどんなに頑張っても、じいちゃんやばあちゃんにあたしがアイドル頑張っている姿をなかなか見せることが出来なくて……。あたしって、本当にみそっかすなんだなあって……」
あたしは、ぎゅっと握りめていたエミリーちゃんの手を離すように力を緩める。
「本当に、本当にみそっかすなんだなあって思ったら、なんだかね。手に力がはいらなくってね。いつもみたいに頑張らなくちゃって、ちっとも思えなくて。……だから、もうダメかもって」
「……ひなたさん」
エミリーちゃんはあたしの言葉を聞いて、今にも泣きそうな顔をしながらあたしの名前を口からこぼす。
それから、エミリーちゃんはあたしと握りあった手を、ゆっくりと解いた。
あたしはこの瞬間、全てが終わってしまったのだと思った。あたしは本当にみそっかすで、あたしを心配してくれるこの手まで、離れてしまったのだと思った。
だから、その後のエミリーちゃんの行動は、あたしにとって本当に予想外だった。
エミリーちゃんは、あたしの手をゆっくりとほどいた後、両手で右手を包み込み、ゆっくりとあたしに拳を握らせた。
「ひなたさん。ひなたさんは今、拳を握っていますよね」
あたしは小さく頷く。
「だから、また、頑張れますよね?」
「……エミリーちゃん。なして、そんなこと言うんだい?」
「ひなたさんが悔しい想いをしているとき、頑張ろうとしているとき、いつもぎゅっと右手を握りこんでいるのを、私は知っています。他の劇場の仲間が活躍しているときに、いろいろな薄暗い感情を吐き出さず、ぎゅっと拳を握り、自分を奮起させる姿。そして、その光の当たっている方に対して素直な賞賛を送る姿は、私の目指すべき大和撫子の姿の一つだと思っています。ひなたさんは私にとって、目指すべき大和撫子の姿の一つなんです。ひなたさんが拳を握れないというのなら、私と一緒に拳を握りましょう。私がひなたさんのお手伝いをします。だから……」
「そんな、あたしなんて……」
「ひなたさん!!!」
エミリーちゃんから今まで聞いたことがないくらい、叫んでいると言っても過言でもないくらい、大きな声がエミリーちゃんの口から飛び出す。
次にぽたぽた、ぽたぽたと、エミリーちゃんの涙が屋上のコンクリートを濡らした。
「ひなたさん。あまり自分のことを卑下しないで下さい。私の大切な目標を貶めないで下さい。お願いします……。お願いします……」
「エミリーちゃん……」
あたしはエミリーちゃんが、そこまであたしのことを尊敬していくれているとは全く思ってはいなくて。
あたしの手を包んでくれているエミリーちゃんの手に、 あたしはそっと自分の手を添えた。
「エミリーちゃんが、そんなに、あたしのこと尊敬してくれているとは思わなかったよぉ」
エミリーちゃんの強い言葉が、あたしの心に染み渡っていく。
「ねえ、エミリーちゃん。エミリーちゃんはあたしのことを卑下しないでって言ってくれるけど、やっぱりあたしは、アイドルとしてまだまだだから」
「ひなたさん!」
あたしの言葉に、エミリーちゃんのあたしの手を握る力がぎゅっと強くなる。ぽたぽたと水滴が屋上のコンクリートを濡らし続ける。
「765プロライブシアターのアイドルとしての木下ひなたは、だいぶ頑張れてやれているなって思うんだわ。したっけ、一人のアイドル木下ひなたとしては、ほとんど何もできていないんじゃないか。そう思っているべさ。他の人と比べても意味がないのはわかってる。でも……、……エミリーちゃんは、コンビニエンスストアでコラボキャンペーンをやったよね? それに1stの満員御礼公演に参加している。未来さん、静香さん、星梨花ちゃんは、劇場広報のウェブラジオのパーソナリティを2年近くやっているし、翼さん、杏奈ちゃん、志保ちゃんは2年連続で、満員御礼公演、39公演に参加してる。
同い年で、ううん、14歳と13歳を合わせてみても、あたしだけがずっと後ろの方にいるんだわ。あたしだけが結果を残せていないって」
エミリーちゃんは心配そうな顔をして、あたしの言葉を聞いている。
「だから、ずっと思っていたんだわ。あたしはアイドルには本当は向いていないのかもって。あたしは、ただ、歌が好きなだけの女の子でしかなかったから……。でも……。でも、こんなあたしでも、誰かの目標になれるくらいのアイドルににはなっていたんだねえ……」
エミリーちゃんは、その言葉をきいて、ぎゅっと手に力を込める。痛いくらいの強さ。
それは、あたしに対するエミリーちゃんの想いだと思うと、その痛みも嬉しかった。
エミリーちゃんがあたしに教えてくれた想いは、あたしの中で立ち枯れそうになっていたアイドルへの想いに、潤いと活力を与えてくれた。
転んで、後ろ向きに座り込んでしまっていたあたしは、まだ座ったままだけれど前を向く位の気持ちにはなっていた。
「……ひなたさん、辞めませんよね?」
その言葉にあたしはまだ即答はできなかった。先ほどより前向きになったとはいえ、あたしはまだ立ち上がり、前に進む気持ちにはなれていなかったから。そしていつ、後ろ向きに戻ってしまうかも、わからなかったから。
「……」
あたしの沈黙という回答に、エミリーちゃんの瞳から、再び涙がこぼれそうになる。
「心配しないで。エミリーちゃん。あたしは北海道からわざわざ、一人で内地に来てるんだもの。765プロにいらないっていわれない限りは、めったなことでは辞めないべさ」
「ひなたさん……」
自分で間引きも考える時期にある。そうは思っていたけれど、これ以上エミリーちゃんの涙を見たくはなくて。
でも、今のあたしは笑顔を取り繕うこともできなくて……。
だから、あたしは、今回はエミリーちゃんに甘えることにした。
「エミリーちゃん。お願いがあるんだけど。いいかい?」
数分後、あたしは屋上のいつもの場所で、エミリーちゃんに膝枕をされていた。
されていたといっても、この膝枕は自分からお願いしたものだ。
以前、ホームシックにかかったときに、エミリーちゃんにこうやって、屋上で膝枕をしてもらったことがあった。
その時には自分でもびっくりするほど早く、ホームシックを治すことができた。
エミリーちゃんに癒やされている。そう実感できた出来事だった。
だから、今回エミリーちゃんに無理を言って、あたしは膝枕をお願いしたのだ。
エミリーちゃんは、そんなことなら喜んでと、あたしのお願いに本当に嬉しそうな表情を浮かべて、いそいそと膝枕をしてくれたのだった。
「どうですか?」
泣かせたあたしが言うのもどうかとは思うのだけれど、泣いたカラスがもう笑ったとばかりに微笑みを浮かべて、あたしをのぞき込むエミリーちゃん。
「無理言って、ごめんねぇ。でも。とても気持ちがいいよぉ」
「いい天気ですものね」
背中はコンクリートが溜め込んだ秋の爽やかな太陽の熱を、頭はエミリーちゃんの太ももの柔らかさを感じる。
天気は快晴だった。
二人の間に会話は生まれなかった。
あたしはただただ、ぼんやりとなにもない青空を眺めていたし、エミリーちゃんは、ゆっくりゆっくり、何度も何度もあたしの頭を撫でてくれた。
その撫でてくれている手が、「頑張ったね」と、褒めてくれている気がして。「残念だったね」と、励ましてくれている気がして。
あたしはその手に込められた想いをもっと身近に感じたくて、ゆっくりと目を閉じた。
その優しく動く手に込められた気持ちが嬉しくて、オーディションの不合格でひび割れていた自分の心が、ほんのすこし癒やされているのを感じていた。
キーーンコーーンカーーンコーーーン♪ キーーンコーーンカーーンコーーーン♪
遠くからチャイムの音が聞こえた。
寝るつもりはなかったのだけれど、あたしは意識を手放していたことに気がついた。
まあ、無理はないかなと思う。昨日、あたしが寝られたのは、朝の6時くらいだった。
プロデューサーにたたき起こされたのも、朝の6時ごろだった。ほとんど寝ていないのだ。
いつも起きるくらいの時間に寝て、すぐにたたき起こされたのだから、寝不足なのは当たり前だ。
電車の中や、飛行機の中ではオーディションに落ちた悔しさで寝られなかったし。
見渡すと辺りは夕暮れに染まっていた。
柔らかな膝枕は無くなっていたし、背中の秋の暖かさも失われていた。
当然、あたしを労ってくれた腕も。
エミリーちゃんは、どこかへ行ってしまっていた。
随分と長い間寝てしまっていたのだから、ある意味当然のことだろう。
エミリーちゃんにはエミリーちゃんの都合がある。
でも。
あたしはのそりと起き上がって膝を抱える。
ぼんやりとフェンス越しに見える茜色の空を眺める。
結局、今のあたしには何も残されていなくて。
ほんの少し前向きになっていた気持ちがもう、後ろ向きになっていた。
いつもみたいに、拳を握りしめることもできなくて。
大好きな歌を口ずさむ気力も湧かなくて。
かと言って、涙を流すこともできなくて。
エミリーちゃんに癒やしてもらえたと思っていた。
でも、今回はまだ、全然癒やしきれていなくて。
オーディションに合格できなかったことは、本当にあたしを大きく傷つけていて。
合格できなくて残念な気持ちは、少しも溶けていかなくて。
あたしはどうすることもできず、ただただぼんやりと、空を眺めることしかできなかった。
空の茜色が藍色に変わるころ、ガチャリとドアが開く音がした。
あたしはその音のした方を見る気力もなくて、ただ、ぼんやりとフェンス越しに空を眺めていた。
「ひなたさん!」
テテテテテと足音が鳴ったかと思うと、後ろからぎゅっと抱きしめられた。
「エミリーちゃん。……もう、戻ってこないと思っていたよ」
エミリーちゃんは、そんなあたしの言葉が聞こえていないかのように、さらにあたしを強く抱きしめる。
「エミリーちゃん。どうしたんだい?」
「ひなたさん。辞めませんよね? さっきの言葉は本当ですよね?」
「エミリーちゃん?」
「ひなたさんが今にもどこかに行ってしまうんじゃないかと。そう思えるくらい、あまりにも元気がなくて、消えてしまいそうで……」
あたしを抱きしめてくれているエミリーちゃんの腕に、そっと自分の手を添える。
「……エミリーちゃん。もう、戻ってこないと思っていたよ。……戻ってきてくれて良かった。今のあたしは、本当に何にもできなくて……」
あたしは、膝小僧をぎゅっと抱え込んだ。
エミリーちゃんは何も言わずに、改めてあたしのことを抱きしめてくれた。
でも、エミリーちゃんのそんな態度を見ても、あたしはまだ立ち上がることができなくて。
「ごめんね、エミリーちゃん。エミリーちゃんがこんなに心配してくれているのに、あたし、まだ全然動けなくて。それがまた、情けなくて……」
あたしは膝を抱えて丸くなった。そして、膝小僧に目からあふれ出てくる水分を吸わせる。
エミリーちゃんに申し訳ない。
動けない自分が情けない。
その気持ちだけで、さきほど枯れていたはずの涙が溢れてくる。
「エミリーちゃん。あたし、あたし……」
いろいろな思いがあふれてくるけれど、それは一つも言葉にならなくて。
言葉にはならないのに、涙は溢れ出して。
あたしはいろいろな感情を持て余しながら、ただただ、膝小僧に涙を吸わせていた。
そんなあたしのことを抱きしめてくれているエミリーちゃんの温もりを感じながら……。
かなりの長い間、あたしはエミリーちゃんに抱きしめられていた。
いつの間にか、空は墨一色になり、劇場の看板に明かりが灯されている。
秋の冷たい夜風があたしたちの間を通っていった。
「ひなたさん。今日はもう、帰りましょう」
あたしはその言葉にブンブンと首を横に降った。
うちに帰りたくなかった。
真っ暗な部屋に「ただいま」を言うのも、一人ぼっちで味気のない食事をするのも、嫌だった。
エミリーちゃんはあたしをその腕の中から解き放して、あたしの目の前に改めてしゃがみこむ。
「明日、どこかに遊びに行きませんか。今のひなたさんに必要なのは、気分転換だと思いますから」
そう言って、膝小僧の前で組まれているあたしの手を両手でそっと包み込んだ。
明日のことは考えたくなかった。何より、今日、一人になりたくなかった。
「あのね、エミリーちゃん、何度も、わがまま言って申し訳ないんだけど……。今日泊まりに来てくれないかなあ。一人でうちに帰るの嫌なんだわ」
あたしの手を包みこんでいるエミリーちゃんの手をじっと見つめながら、あたしは言った。
「今日はもともとお泊まりさせてもらおうかなと思ってたので、大歓迎です」
その言葉に一秒の躊躇もなく、エミリーちゃんは首を縦に振った。
それからすぐにまた、秋の夜風が私たちの間を通り過ぎていったので、あたしはようやくその重い腰を上げたのだった。
「ひなたさん。郵便受けに宅配便の不在票が入っていましたよ」
あの後、控え室に戻ったら、プロデューサーから一緒にご飯を食べようと誘われ、3人で佐竹飯店に行くことになった。
佐竹飯店では美奈子さんがお店のお手伝いをしていて、ご馳走の絨毯爆撃といった感じで、いつものように頼んでいない料理も次から次へと出してくれた。
食べきれないものは持たせてくれたし、あたしが落ち込んでいるのを察したのか、甘いものを食べると元気になるからといって、お土産に胡麻団子を渡してくれた。
プロデューサーからも、お土産をもらった。
A5サイズの小さい紙袋。その中には20通程度、あたし宛のファンレターが入っていた。
両手に荷物を抱えていたあたしの代わりに、エミリーちゃんが郵便受けを確認し、家のドアを開けてくれた。
そして、あたしが荷物をテーブルの上に置いてすぐに、宅配便の不在票を渡してくれたのだ。
「ありがとうね。あたし、再配達のお願いやってしまうね」
「わかりました。私が、お風呂の準備とか寝る準備とかしておくので、ひなたさんは再配達のお願いとか、ごヒイキ様方からのお手紙の確認とか、していてください。
「そうかい……。ありがとうね」
あたしは少し迷って、お礼を言うことにした。やっぱり、ファンレターは少しでも早く確認したかったから。
携帯電話に登録してある再配達の番号を呼び出した。
数コールのあと、無機質なアナウンスが流れ始めた。
番号の並ぶ携帯電話の画面を十数回タップして、明日の朝に荷物が届くようにした。
田舎から送られた荷物だった。先日、ジャガイモをいっぱい送ってもらったはずなのに、と首を傾げた。
何か送り忘れた物でもあったのかもしれない。そう思いながら、プロデューサーが渡してくれた紙バッグからファンレターの一つを手に取った。
封筒はいつものように開いていた。
変な物が入っていないか、アイドルを傷つけるような言葉が綴られていないか、スタッフさんやプロデューサーがチェックをしてくれているそうだ。
封筒から便せんを取りだし、広げた。
あたしはその人の名前身に覚えがあった。その人は以前から何度も、ファンレターを送ってくれた人だったから。
なんとなく嫌な予感がして、眉をひそめる。
内容はいつも通りの内容だった。何月何日にあたしが書いたblogの内容の感想を書いてくれたりだとか、LTD05の『"Your" HOME TOWN』を友達に布教してくれているだとか。
そして、この人の結びの文は、いつもこうだった。
『ひなたちゃんをテレビで、現地で見たいです。いつか、その日が来ることを楽しみにしています。アイドル活動は大変でしょうけど、頑張ってください』
その言葉は、以前に何度も励まされたことであるはずなのに……。今日はその言葉がとても痛くて。
そっとファンレターをテーブルの上に置いた。やっぱり、握り拳を作ることはできなかった。
あたしはベッドの上に移動し、壁を背にして、膝を抱えて丸くなった。
励ましてくれる言葉がこんなにつらいなんて、思いもしなかった。目から涙が溢れ、膝小僧を濡らした。
「ひなたさん、大丈夫ですか?」
突然、ベッドの上で丸くなって泣いているあたしに驚いて、エミリーちゃんがすぐに近寄ってきて、手を握ってくれた。
「どうしたんですか? お手紙に、ひどいことが書かれていたんですか?」
あたしはその言葉にぶんぶんと首を横に振る。
「あたしは、……その人の期待も、応えられなくて……エミリーちゃん。どうしよう、アイドル、こわいよぅ」
すすり泣きの合間に声を絞り出す。
「ひなたさん……」
エミリーちゃんはあたしの言葉に、改めてぎゅっと手に力を入れ、あたしの手を握った。
「今日は、散湯浴だけにして、寝ちゃいましょう。ね。私、準備しますから。ね」
あたしは、その言葉にただ小さく頷いた。
それからのあたしは、シャワーで軽く汗を流し、パジャマを着るとシャワーを浴びる前と同様に布団の上で、膝を抱え込む。
エミリーちゃんも手短にシャワーを浴びたみたいで、いつもより短い時間で、お風呂から出てきた。
「お布団を準備するので、もう少しだけ待って下さいね」
そう言うとエミリーちゃんは、ほぼエミリーちゃん専用とも言える客用布団を押し入れから、取り出そうとする。
「エミリーちゃん、今日は一緒に寝てくれないかい?」
あたしは、それを止め、膝小僧の間から、上目遣いで、エミリーちゃんを見つめる。
今日のあたしは、本当にダメダメだから。アイドルがこわくてこわくてしょうがないから。
「もちろん、いいですよ」
あたしの情けない言葉に、にっこりと笑うエミリーちゃんが頼もしかった。
「こないだ、莉緒さんに教えてもらったのですが、抱きしめられると精神負荷を多少なりとも軽減することができるそうですよ」
電気を消し布団に潜ると、エミリーちゃんはそう言って、あたしの頭を胸元で抱きかかえた。
「重くないかい?」
「はい。大丈夫です」
「こわくなったら、いつでも下ろしてね」
そう言いながらも、寝付くまではこのままでいてほしいと思っているあたしがいた。
目をつむると、とくん、とくんと耳から伝わってくるエミリーちゃんの鼓動が心地よくて。
たまたま胸の位置に置かれた手に伝わってくる感触が。柔らかくて。
今日一日凍り付いていた心が、ほんの少し解けている。そんな気がする。抱きしめられるとストレスが軽減するって言葉は本当なのだと思う。
「エミリーちゃん。おやすみなさい。あと、もう一つだけ、お願いがあるんだけどいいかい?」
「なんですか?」
「手、つないで寝ていいかい」
「はい!」
エミリーちゃんの頭を抱えていた片方の手が、あたしの手を握る。
「今日のあたしは、本当にダメダメで、エミリーちゃんには迷惑ばかりかけちゃって、本当にごめんね」
あたしの言葉にエミリーちゃんはきゅっとあたしの手を握った。
「今日のひなたさんは、本当にダメダメだったと思います。でも、今日のひなたさんは心が大怪我してましたから、しょうがないことなんです。むしろ私が大怪我しているひなたさんを癒やすことができているかが心配なんです」
「そんな……」
「今日のひなたさんが少しでも癒やされている。と感じることができた瞬間があったのなら、『ごめんね』じゃなく、『ありがとう』と、言ってくれませんか? その言葉が聞ければ、私も安心できるんですけど……」
あたしはその言葉にエミリーちゃんの手をぎゅっと握り返す。
「エミリーちゃん。今日一日、本当に、本当にありがとうね。おやすみなさい」
エミリーちゃんもあたしと握った手をぎゅっと握り返してきた。
「ひなたさん、ありがとうございます。おやすみなさい」
そう言ったあと、エミリーちゃんは何度も何度もあたしの頭を片方の手で撫でていてくれた。
その日、あたしはエミリーちゃんの優しさに包まれながら眠りに落ちていった。
そして、夜が明けた。
枕元に充電してあった携帯を取ろうとして、エミリーちゃんがまだ、手を繋いでいてくれたことに気がついた。
あたしはエミリーちゃんのその手を、そっと握りしめる。
昨日はただ、握り返すのがやっとだった。
でも、今日はエミリーちゃんの手を握りしめることができた。
今は多分まだ、自分だけでは自分の手を握りしめることはできないと思う。
それでも、今エミリーちゃんの手を借りて、拳を握ることができている。
ふぅ……。と大きくため息をつく。
どうして。と、素直に思う。
あたしは、たいした人間じゃない。歌が好きなだけな。ただの女の子だ。
劇場のみんなはあたしよりも、歌もダンスもキラキラしたモノも持っている。
なのにどうして、エミリーちゃんはあたしのことをあんなにも尊敬してくれるのだろうか?
どうして、エミリーちゃんはここまで慕ってくれるのだろう?
あたしはただ、頑張っている人に対して素直に賞賛しているだけ。
自分自身の不甲斐なさを頑張って乗り越えようとしているだけ。
ただ、それだけなのに。
あたしはただただ、ぼんやりと人形のようなエミリーちゃんの寝顔を見つめていた。
そこに答えは書かれていないとわかってはいたのだけれど、何かがわかるかもしれないと思いながら……。
しばらく眺めていると、エミリーちゃんのその藤色の瞳が、ゆっくりと開いた。
そして、ぽんやりとした瞳とあたしの目が合った。
「ひなたさん……」
すると、寝ぼけているのか、エミリーちゃんは普段は見せないような、ふんにゃりとした、笑顔を浮かべたあと、あたしを胸元に抱き寄せた。
そして、あたしの頭を昨日と同じように、優しく撫でてくれた。
「エミリーちゃん……」
問いかけても、エミリーちゃんからの返事はなかった。
「……エミリーちゃん? 寝てるのかい?」
再び問いかけても、やっぱり返事はなく、頭を撫でていた手は、ぜんまいが緩み切ったおもちゃみたいに徐々に動かなくなった。
あたしは起きようかどうか迷って、このままエミリーちゃんと一緒に二度寝をすることにした。
エミリーちゃんを起こしたくなかったし、エミリーちゃんの優しさに包まれいていたかったから。
エミリーちゃんの温もりと花のような香りを感じながら、あたしはもう一度目を閉じた。
ピンポーンという呼び鈴の音が部屋に響いた。
「はーい」
その音に既に起きていたエミリーちゃんが反応し、パタパタと玄関に向かっていく。
あたしはなんとなくすぐに起きたくなくて、布団を被り、丸くなった。
エミリーちゃんが玄関先で誰かと2、3話をしたかと思うと、すぐに、扉の閉まる音がした。
「ひなたさん。おはようございます。ご実家から、お荷物が届きましたよ」
あたしはその声で、ようやくベッドから起き上がるのだった。
「おはようございます。エミリーちゃん」
「おはようございます。ひなたさん」
朝の挨拶を交わし、お互いに微笑みあう。
エミリーちゃんが泊まりに来た時には、ほとんどと言っていいほど必ず行われる、あたしとエミリーちゃんとのささやかな儀式。
とはいっても、あたしは多分、いつも通りには笑えていないとは思うけれども。
「したっけ、何を送ってきたんだろう? 何か送るって、何にも言ってなかったけど……」
ベッドの近くに置いてあった携帯を取り、メッセージアプリを開いてみても、特に家族からメッセージは届いていなかった。
「ひなたさんは、中身を確認しててください。今日は私が朝ごはん、作りますから」
「わかった、ありがとうね」
ほとんどの場合、朝はあたしの方が早く、朝ご飯もあたしが作るのだけれど、エミリーちゃんがあたしより早起きしたときは、エミリーちゃんが朝ご飯を作る約束になっている。
砂糖がけのコーンフレークがからからからっと、鳴る音を聞きながら、あたしは実家から送られてきた段ボールを開封する。
最初に目に入ったのはA5サイズの書類封筒。
封筒を持ち上げると、その下には、タマネギとジャガイモがどっさりと入っていた。
これは、劇場に差し入れしないといけないなあと思いつつ、手に取った封筒の口を開く。
糊付けされていなかった封筒は簡単に口を開いた。
中に入っていたのは写真だった。
そこに写っていたのは、じいちゃん、ばあちゃん、両親、弟。農園を手伝ってくれる兄ちゃんたち。学校の友達。近所のおじちゃん、おばちゃん。
30名近くの集合写真だった。その最前列の中央にいるあたし。それは、あたしが内地に来る前に撮った写真で、テレビ台の写真立てに入れている写真と同じ物だ。
その、写真立ての写真と唯一違うところは、その写真の上部に【"Your" HOME TOWN】と書かれており、さらに、"Your"のなかのourに下線が引かれていた。
先日発売されたLTD05。その中で、あたしが亜美シショーと一緒に歌った歌。
その歌の歌詞が、その送られてきた写真に詰まっていた。
だから、家族の誰かがCDを買って、家族の誰かが写真を焼き増しして、"Your" HOME TOWNと書いて送ってくれたのは間違いないだろう。
それを行うのは簡単なことだけれども、それを行うのはあたしの動向をきちんと追ってくれている。――新曲のCDをいち早く買って、聴いてくれる。
そのことがこの写真から伝わってきて、嬉しかった。
あたしはその写真をくしゃくしゃにならないように、そっと胸に抱きしめた。
写真から、家族の温かさが胸に染み込んでいくようだった。
「何かいい物が届いたんですか?」
お盆の上のサラダボウル、ヨーグルト、牛乳の入ったシリアルをテーブルの上に置きながらエミリーちゃんが聞いてくる。
「うん、タマネギとかジャガイモとか。あと、これを送ってもらったんだぁ」
そう言って、あたしは、エミリーちゃんに写真を渡した。
「これは……、すごくいいですね。あなたの故郷と書かれているのは、ひなたさんの新曲からですよね?」
「たぶんね。あの歌詞のままだから……」
そう言いながら、エミリーちゃんと一緒に写真をのぞき込んでいると、チーンと、トースターが鳴き声を上げた。
「私、朝食の準備、終わらせちゃいますね」
エミリーちゃんは私に写真を返すと、立ち上がった。
あたしはテレビ台に置いてある写真立てを手に取ると、今入っている写真の上に送られてきた写真をのせ、写真立てを元に戻した。
朝ご飯を食べ終わった。
「ごちそうさまでした」
あたしもエミリーちゃんも、胸元で手を合わせて声を出す。
「今日は、私が片付けますね」
そう言って、エミリーちゃんはさっと立ち上がり、お皿類をまとめて流しに持っていた。
「そうかい、ありがとうね」
少し手持ち無沙汰になったあたしは、テレビの横に置かれている写真立てをなんとなく眺めていた。
そんなあたしを、いつの間にか朝食の洗い物を済ましたエミリーちゃんが、心配そうに見つめているのに気がついた。
「どうかしたのかい、エミリーちゃん?」
エミリーちゃんはあたしの横に座って、少し躊躇ってから口を開いた。
「ご家族からの写真、ひなたさんはどう思ったのかなって……」
そして、何かを確かめるかのように、あたしを見つめる。
「そうだね、やっぱり嬉しかったよ。CDを聴いてくれて、写真も送ってくれて。応援されているなっって」
「嬉しかったんですか? そうですか。それは良かったです」
その言葉を聞いたエミリーちゃんは、本当に嬉しそうにそう言ってベッドの側に行き、ベッドの下からごそごそと何かを取り出し、あたしに手渡した。
それは、昨日、こわくなって読めなくなった手紙だった。
「ご家族のお写真が嬉しかったのなら、こちらもきっと嬉しい気持ちで読めるのではないかと思うのですけど……。ひなたさんがまだこわいなら、無理にとは言いませんが……」
そう言いつつ、心配そうにエミリーちゃんはあたしを見つめる。
その視線を受け止め続けることが出来ず、あたしは目を伏せた。
昨日のあたしは、ファンの人の気持ちを受け取ることが出来なかった。あれから少し時間は経ったが、それは純粋に寝た時間だ。
ただ寝ただけのあたしが、昨日とは違って、ファンの人の気持ちを受け止めることが出来るだろうか……。
あたしは差し出された手紙と心配そうにあたしを見つめるエミリーちゃんを何度も何度も見比べた。
「……ひなたさん」
心配そうに絞り出される声。あたしはその声を聴いて、ファンレターを読むことを決意した。
これ以上、エミリーちゃんに心配はかけられない。あたしは一回しっかり瞬きすると、エミリーちゃんから、手紙を受け取った。
そして、封筒から手紙を取り出す。
そこに書かれていた文章は、当然昨日の夜と一言一句変わらない。
当然、手紙の最後に書かれている言葉も変わらない。
『ひなたちゃんをテレビで、現地で見たいです。いつか、その日が来ることを楽しみにしています。アイドル活動は大変でしょうけど、頑張ってください』
その言葉はやっぱり胸に痛かった。期待に応えられないあたしが不甲斐なくて。
あたしはぎゅっと右手を握りしめた。
……握りしめた? あたしは、自分のとった行動にびっくりして、まじまじと自分の右手を見つめた。
自分ひとりだけの力で作られた、握り拳がそこにあった。
その握り拳を見つめていると横から2本手が伸びてきて、柔らかく包みこまれた。
「ひなたさん……。もう、アイドル、こわくないんですよね。大丈夫なんですよね?」
エミリーちゃんは、目に涙をためてそう言った。
あたしは、エミリーちゃんの両手に包まれた握り拳をしばらく見つめてからこう言った。
「エミリーちゃん。アイドルは、やっぱりこわいよ」
その言葉にあたしの握りこぶしを優しく包んでいた両手に力が入る。
「ひなたさん……」
あたしは持っていたファンレターをテーブルの上に置くとエミリーちゃんの両手の上にそっと左手を重ねた。
「アイドルは、やっぱりこわいよ……。どんなに頑張っても、まだまだ、成果を実感できないし、故郷の方にもあたしがきちんとアイドルしているところを見せることも出来ていないし……」
今にも涙がこぼれ落ちそうで。でも、それを我慢してエミリーちゃんはあたしのお話を聞いてくれる。
それから、あたしはゆっくりとエミリーちゃんの手をほどいて立ちがり、ベッドに腰をかけた。
そして、とんとんと手のひらで軽くベッドを叩き、エミリーにちゃんにすぐ横に座るように促す。
エミリーちゃんは何も言わずに、ストンとその場所に腰を下ろした。そして探るような目であたしを見つめる。
「昨日のあたしには、あのファンレターはこわいものだった」
テーブルの上に置かれているファンレターに、視線を送る。
「手紙をくれた人は、何度もあたしに手紙をくれた人で、その人の手紙に何度何度も励まされたのに……。書いてある言葉の一つ一つが心に突き刺さって……。こわくて、こわくて、仕方がなかったんだよ」
そう言った後、あたしはゆっくりと立ち上がり、エミリーちゃんの前に立った。そして、エミリーちゃんのことをじっと見つめる。
エミリーちゃんはあたしがどんな行動をとるのかわからずに、不安そうにあたしのことを見つめ返していた。
あたしとエミリーちゃんは、しばらくの間、見つめ合った。
エミリーちゃんが、不安げに何か言葉を発しようとしたタイミングで、あたしは、エミリーちゃんに抱きついた。
エミリーちゃんの驚いた声はあたしの胸元に吸い込まれていった。
あたしより背の高いエミリーちゃんがベッドに腰をかけて、エミリーちゃんより背の低いあたしが立ってエミリーちゃんのことを抱きしめる。
結果として、あたしはエミリーちゃんのことを胸元で抱きしめていた。
もちろん、これはあたしが意図してこうしたのだ。
エミリーちゃんに、あたしの鼓動を聞いて欲しくて。
「あたしがこうやって、昨日こわかった手紙を読んでいられるのは、エミリーちゃんのおかげだよぉ。昨日寝る前に、エミリーちゃんが手を握ってくれたから。あたしのことをこんな風に抱きしめてくれたから。エミリーちゃんがいなかったら、あたしは、家族の手紙にもこわいと思ったかもしれないよ。本当にありがとうね。エミリーちゃん」
「……ひなたさん」
エミリーちゃんはそう呟き、あたしの背中に両腕をまわし、あたしのことをぎゅっと抱きしめた。
「……本当に、良かったです」
その後エミリーちゃんが小さくそう呟いたかと思うと、あたしはあたしのシャツの胸元が水分を吸い込んでいるのを感じた。
「昨日はもうダメかもしれないと思いました。本当に、本当に……」
エミリーちゃんの震えが止まるまで、あたしの胸元が水分を吸い込むのをやめるまで、ずっとそのままの姿勢でいた。
あたしの右手はエミリーちゃんの後頭部と背中をゆっくりと撫でさすっていた。
「こわい。詩花さんのレッスン本当にこわいわぁ」
約束の水曜日。あたしは壁にもたれかかりながら、そう呟いた。
一緒に練習したエミリーちゃんは、しゃべる気力もないのか、床に大の字になって、ぜーぜーと息を整えている。
「ひなたさん、前回と比べて格段に良くなってますね。本当にすごいです」
そう言いながら、詩花さんはレッスンルームに備えつけられた、ビデオカメラを操作した。モニターに先ほどあたしが踊った画像を映し出される。
その画像を見ながら、詩花さんはあたしにダメ出しをしていく。
あのオーディションを経て、いろいろこわいことはあったけれど、あたしは家族とエミリーちゃんのおかげで前を向いて、立ち上がって前に進むことができた。
だから、あたしはこうして、また詩花さんと一緒に練習を重ねている。
「前回もらった修正点、頑張って、オーディションまでに直したからねえ。その成果が出ているのかもしれないねぇ……」
オーディションは通らなかったけれど。という言葉は飲み込み、あたしは小さくため息をつく。
アイドル組曲のオーディション、本当に本当に頑張ったのだ。目の前に詩花さんはいるけれど、少しくらいのボヤキは許してほしい。
でも、その詩花さんのおかげで成果は出ていると感じていた。前回に比べて明らかに指摘の数が減っていたから。
「次、また、オーディションを受けたら、今度は受かるかねぇ……?」
プロデューサーには、まだ、もう一度受けたいとは言っていなかった。あの後は、プロデューサーが忙しいこともあって、あまりプロデューサーと話をしていなかったから。
そして、あたしがまだ、次のオーディションを受ける自信がなかったから。
「受かるんじゃないかと思いますよ。内部資料確認した社長から、お小言をもらいましたから。『相手は765プロの5流アイドルアイドルなんだから、もっと大差で勝たないとダメだ』って。内部資料、私も見せてもらいましたけど、私とは、それなりでしたけど、三番の人は結構突き放していましたよ。あのオーディション。もともと、私のアイドルランクに比べて低いオーディションでしたし……」
アイドルランクというのは、文字通り、アイドルの格付けのような物で、事務所に所属したてのアイドルは常にFランクからスタートする。Dランクで地方局の番組に呼ばれるくらい、Cランクで、全国区の番組に呼ばれるくらいのランクだ。
Bランクだと、全国区テレビ番組に冠番組を持つくらいの知名度になり、Aランクになると、いわゆるトップアイドルと呼ばれるようになる。さらにその上のSランクやオーバーランク、地下アイドルのことを指す、アンダーランクなどもあるらしい。アイドルの格付けはそのアイドルの実力と、人気度、歌唱チャートを参考に、事務所のしがらみにとらわれない専門の格付け会社が行っていると以前プロデューサーに教えてもらった。
また、各制作会社はそのランク付けを利用し、適切な予算組みが出来るとことで、オーディションには参加可能ランクを決めていることも多いと。
だから、基本的には、決められたアイドルランク以外の人がオーディションに来ることはないはずなのだけれども、今回は黒井社長が手を回して、規定のアイドルランクにはずれたアイドル。つまり詩花さんを無理に参加させたようだ。
それはさておき、何かと便利なアイドルランクだけれども、アイドルやその関係者がアイドルのアイドルランクをファンに口外することは禁止されている。
なぜなら、昨今のSNSの発達によって、このアイドルランクがファンの間で火種になることが多発したためだと律子さんに教えてもらった。
劇場では、プロデューサーや社長がお仕事を持ってきてくれることもあって、アイドルランクに言及することは、オーバーランクの玲音さんが来るときぐらいなのだけれど。
ちなみに、エミリーちゃんのランクはD+、あたしのランクはE+になったばかりだ。詩花さんのランクはたのしいくらしっくに出演していることを考えると、C+かB-くらいなのだと思う。アイドルランクの差を考えたら、ある程度の差というのは、やはり頑張ったほうなのかもしれない。
「そういえば、どうしてオーディションの曲、ソロ曲にしなかったんですか?」
あたしがそんなふうに考えていると、大の字に倒れていたエミリーちゃんが体力がようやく回復したのか、あたしと詩花さんとの会話に混ざってきた。
「もう大丈夫かい? 詩花さんのレッスン、本当にこわいから、辛かったらまだ寝ててもいいよぉ」
「いいえ、なんとか、大丈夫です、から」
まだ息を切らしてはいるけれども、そのまま倒れそうな感じじゃないから、気にしなくてもいいだろう。そう判断し、改めてエミリーちゃんの言葉に耳を傾ける。
「えっと、なんだっけ?」
「どうして、自分の持ち歌を歌わなかったのかですよね? そういえば、『Thank You!』歌ってましたよね。普通、オーディションの課題曲が自由だったら、自分の持ち歌、歌いませんか? 持ち歌を持っていない新人ならともかく……」
そういって、詩花さんは不思議そうにあたしを見つめ、エミリーちゃんの目もそれに追随する。
「どうしてって、たいした理由はないよぉ。オーディションに合格したかったら、練習した回数が、今までで一番練習した回数多い曲を選んだ方がいいかなあと思っただけだよ」
そう言ったら、エミリーちゃんと詩花さんの二人から、大きなため息をつかれた。
「どうしてだい?」
「765プロの皆さんのソロ曲は、皆さん自己紹介みたいなソロ曲をもらってますよね? その曲をオーディションで使わないのは、もったいなすぎませんか?」
「私もそう思います。『ありがとう!』は私も好きな曲ではありますけど、『あのね、聞いてほしいことがあるんだ』とどちらがひなたさんの魅力を引き出すかというと、絶対、『あのね、』のほうだと思います!」
「でも、合格を狙うんだったら、しっかり踊れた方が良くないかい?」
「もちろん、それなりの技術は必要でしょうけど、オーディションで見せなきゃいけないのは人となりだと思いますよ」
「人となり?」
今度は、あたしとエミリーちゃんで詩花さんを見つめる。
「作品や番組に使ってみたい人を選んでるわけですから。そのオーディションがダメでも、人となりが気に入ってもらえれば、別のところで使ってもらえるかもですし。技術が自分よりうまい人はいっぱいいますしね。それじゃあ、振り有りで歌ってみましょうか」
「え? 何をだい?」
「ひなたさんの曲を、ですよね?」
「ええ、今回の『Thank You!』くらいソロ曲を仕上げておけば、今のランクのほとんどのアイドルには負けなくなると思いますよ」
「ほんとかい!? それじゃあ、頑張らねば」
あたしはそう言って、いそいそと歌を歌う準備を始めた。
アウトロに合わせて、最後のステップを踏んだ。
詩花さんに教わったとおり、観客を意識して、指先を意識して。
最後の単音に合わせて、決めポーズをとった。
文字通りの脚光を浴びながら、しばらくそのポーズで固まって、その後あたしはゆっくりと身体を元に戻し、深々とおじぎをした。
かちっっという音が聞こえて、お辞儀をしたあたしは、凍ったように動きを止めた。
「うん。やっぱりすごく良くなってるね。以前と比べて動きが全然違ったよ。ひなたは、気になったところはあるかい?」
「緊張して、練習したところが出来ていないところがあるねぇ。あそこでやった時は、うまくできたと思ったんだけど、残念だわぁ。いっぱい練習したんだけど……」
あの後、詩花さんとの練習で、あたしのソロ曲を練習した。
『Thank You!』での下地があったせいか、あたしの曲はあたしが思っているよりも、すぐに『Thank You!』と同じくらいのパフォーマンスを出せるようになった。
だから、あたしはすぐにプロデューサーにオーディションを受けたいと言いに行って、プロデューサーもすぐに、オーディションの手配をしてくれた。
そして、今度は無事に合格することができた。
あたしたちは、今度放送されるVTRの確認をしていた。
完璧に出来たと思えても、改めて見返すと、出来ていないところがある。まだまだ付け焼き刃ということなのかもしれない。
もっと、もーっとがんばらねば、みんなに置いて行かれてしまう。ただでさえ、置いて行かれ気味なのだから。
あたしはぎゅっと、右手を握った。
そんなあたしを見て、プロデューサーは困り眉をして言った。
「……ひなた。前も少し言ったけど、あれから自分を褒めてあげたかい?」
あたしは思わず右下に視線を落とす。
そんなあたしの頭に、ゆっくりとプロデューサーが手を置いた。
「改めて言うよ。ひなた、今回はよく頑張ったね」
プロデューサーはそう言いながら、頭を撫でてくれた。
プロデューサーの大きい手を感じる。暖かさを感じる。
そう思った瞬間、あたしの中で何かが溢れだして止まらなくなった。
気が付いた時には、涙がぽろぽろと零れていた。
『よく頑張った』
オーディションが不合格だったときと同じ言葉のはずなのに、今度は心に言葉が吸い込まれていった。
「うん。……あたし、頑張ったん、だよ」
嗚咽交じりになんとか言葉を紡ぐ。
「ずっと、ずっと、頑張っていたんだよ……」
それ以上の言葉は紡ぐことが出来なくて。
「うっ……ひっく……」
泣きじゃくることしかできないあたしの背中を、プロデューサーは優しくさすってくれる。
その優しさが嬉しくて、温かくて、心地良かった。
やがて、落ち着いたあたしは、恥ずかしさを誤魔化すように笑った。
でも、それは無理矢理作った笑顔で、きっとひどい顔になっているだろうなって思う。
それでも、プロデューサーは微笑んでくれた。
「ひなた。これからは、もっと自分のことを褒めてあげような」
プロデューサーのこの言葉に、あたしはしっかりと頷いた。
それから、あたしは情報解禁日を待って、実家へと連絡を入れた。
普段は声を聴いてしまうと寂しくなってしまうから、あまり連絡をしないようにしていたのだけれど、今回はそういうわけにもいかない。
今回は、家族に見てもらいたくて、故郷のみんなに見てもらいたくて頑張ったのだ。
あたしがきちんとアイドルしているところを見せたくて、頑張ったのだ。
そのことを家族のみんなに伝えるために、すこしくらい言葉遊びして、こっそり喜んでもいいだろう。そんなことを思いながら、電話を掛ける。
しばらく間、呼び出し音が聞こえた後、電話が繋がった。
「はい、木下ですけど〜」
電話に出たのは、ばあちゃんだった。
久しぶりの家族の声を聴いただけで、なんだか懐かしく感じてしまう。
「もしもし、ばあちゃん?」
「おぉ、ひなっこかい。元気してたかい?」
「うん、こわい思いもしてるけど、頑張って、アイドルやってるよ」
あたしの言葉を聞いて、ばあちゃんはふっと息を漏らした。まるで、安心したかのように。
その後、他愛のない会話をして、最後にあたしは言った。
「ばあちゃん、あのね、聞いてほしいことがあるんだ……」
「おめでとう! ひなっこ!」
ばあちゃんの嬉しそうで、温かい声が携帯電話から聞こえてきた。
FIN
あとがき
ようやくこのお話にFINマークを打つことが出来ました。
このお話はファイルの記憶によると、2018年8月2日が作成日となっています。
すごく苦労したしたお話で、1時間座っても1行しか文章が浮かばなかったり、それなりの長い文章になっても、バッサリ削除したりで、丸四年以上かかって、このお話は無事完結させることが出来ました。
20000字くらいは虚空に消えてった文章があります。長文を書くモノ書きさんには普通のことなのかもしれないですが、自分は短文を書く方が好きなので、それも大変でした。
長文を書くモノ書きさんは校正どうしてるんですかね? この文書量でも校正大変なのに。
今までも、こういった長文の話を書いたことはありましたが、長期にわたって書いて無事に完結させることが出来た作品はありませんでした。
その作品の供給が止まってしまうと、どうしても書き続けることが出来なくなるんですよね。
このお話が、完結したのは常にアイドルマスターミリオンライブというお話を10年ものあいだ、運営さんが紡ぎ続けてくれたからだと思います。
ミリオンライブ10周年おめでとうございます。
自分がミリオンライブにさわり始めたのは、最初のイベントの終了間際から。
2番目のイベントロケットスタートから遊び始めたと覚えています。
そのときは、まだ木下ひなたの担当にはなっておらず、でもなんとなくひなたは好き。という感じだったと思います。自分がひなたの担当になったのは、ソロ曲「あのね、聞いてほしいことがあるんだ」を聞いたのがきっかけでした。
ミリシタは、リリースから触りましたが、殆ど触っておらず、ピコピコプラネッツでひなたが出るイベントをやるから、復帰して、そこから、2周年までにぎりぎり周年ミッションを終わらせた覚えがあります。
ミリシタをしていたからこそ出来た思いはいろいろありますが、今年はなんと言っても、リベンジ、武道館。
当時転職をしたばかりで武道館ライブには応募することも出来ませんでしたが、今回こそはとアソビストアにも入会し、武道館でミリオンの初ライブ参戦をかざることができました。
これからも、ミリオンライブと木下ひなたを楽しんでいけたらなと思っています。
この作品を出すことで、ミリオンライブの10周年に少しでも花を添えることが出来たらなと思います。
本当はひなたの誕生日あわせで完成させようとして、急遽10周年あわせにしたからめちゃくちゃ大変でした。